S? M?
いえ、フツーです
35話*「本音」
僅かに日が傾きはじめた頃には景色も華やかな繁華街から閑静な高級住宅街へと変わっていた。ぼんやりと覚えのある家々から運転席に目を移すと、影が出来た横顔でも端正な顔立ちが見える。
帝王様とは違う魅力ある顔。
それが素直にカッコイイと思うのは、普段へにゃへにゃした顔しか見てないせいかもしれない。でも“苦手”じゃないことに疑問を投げかけた。
「冬くん、まだ寝てるんですか?」
「時間潰してる時に起きたよ……なんか機嫌悪いみたい」
「そういえば……ふーちゃんが『冬め』って怒ってたっけ」
「そうなの? じゃあケンカしたかな。冬とふぅはよくするよね……と、はい、春冬です」
角を曲がりながら左耳につけたインカムに手を添えた春ちゃんは事務的な話をはじめる。天井に目を向けた私の脳内には腕を組み、頬を膨らませたふーちゃんが浮かんだ。
明け方に冬くんと会い、父に呼ばれてることを話してくれたふーちゃん。
その顔と声は怒っていて、最初は冬くんにからかわれたのかと思ったけど、今も怒ってるのを考えると違うように思える。帝王様に苛め返されたせいもあるかもしれないが。
考え込んでいると『ちぃ』と馴染みの声を掛けられ視線を落とす。
連絡を終えた春ちゃんがミラー越しに見ていた。
「家の前に何人かマスコミが張ってるらしい……俺は別に冬にならなくても行けるけど、どうする?」
「落ち着いた頃に呼び出してもらいたかったです……」
溜め息と一緒に呟くと懐かしい門構えが見え、ふーちゃんの手が上がる。身を乗り出した私は春ちゃんの頬を引っ張った。
「ちょ、ちぃ、なんのご褒美?」
「仕事中なんですから運転に集中してください」
「ええ~」
声は不満気でも、その顔はどこか嬉しそうに笑っている。
そんな彼の手が眼鏡を取ると、手を離した“あたし”もシートベルトを外した。
「じゃ、隠れる」
「はいはい、頑張ってぎゅぎゅっと埋まっだ!」
眠そうに目を瞬かせる“冬”の頭を叩く。
何か呟いているが、構わず後部席の隙間に身を隠した。車が一時停止すると、ギギッと鈍い門が開き、マスコミらしい声も聞こえる。それだけで動悸が速くなるが、緩やかに動き出す車と窓に見える竹林に顔を出した。
見えてきたのは紺色の瓦が連なった切妻屋根。
クリーム色の漆喰壁は少し色褪せ、出窓格子にアプローチには犬槙や千両が植えられている。百合姉の家とはまた違った日本家屋。
五年振りに見る実家だ。
* * *
「まあまあ、お嬢さま。お綺麗になられまして」
「お久し振りです、柏木さん」
玄関に入って早々“私”を迎えてくれたのは割烹着を着た七十代の家政婦さん。
子供の頃からよくしてくれた彼女は最後会った時より腰が低くなり、握る両手も少し皺々。それでも温かさは変わらず、目尻には涙を浮かべている。気が進まない帰宅に、胸の内がほっとするのを感じた。
「お帰りなさい、ちぃお嬢さん」
「はひっ!? あ、ああ……春樹さん」
突然掛けられた声に柏木さんの両手を強く握り締め振り向くと、大らかな男性に気付く。
もう六十近いはずなのに、一八十ちょっとの身長に短く切られた前髪をアップにし、黒のベストにスーツ。春ちゃんのお父さん、牛島 春樹さん。
昔から父の秘書兼護衛をしてくれていて、息子同様いつ近付いてきたのかわからないほど気配がない。スリッパ履いてるのに。
すると、柏木さんに謝る私の背後にいた息子に瞬きした。
「仕事中なのに春くんなのかい?」
「冬とふぅがケンカしてるんだよ」
「それはまた……ふぅお嬢さん、申し訳ない」
「あー、勝手に冬のせいにしたー」
「いつも原因は春冬くんじゃないか」
頭を上げた春樹さんの溜め息に、春ちゃんは口を尖らせた。
眼鏡を外していても春ちゃんだとわかるように、春樹さんには私達の区別がついている。この家の主人と違って。
一息つくと、息子のことで言っておくことを思い出した。
「春樹さん、春ちゃんから私の家の合鍵、奪っておいてくださいね」
「え? お嬢さん家の合鍵は僕が預かってるから春冬くんは持ってないよ」
「え? アパート借りた時から持ってて、春樹さんとお父さんが許したって……」
「え? 確かに必要な時は言うように言ってるけど、一度も借りにきたことないよ」
瞬きしながら懐から鍵束を取り出した春樹さんは一本の鍵を見せる。我が家の合鍵を。
沈黙が流れる中、引っ越しの日を思い返す。手伝ってくれた春ちゃんに父に渡しとくからと言われ渋々合鍵を渡し……っ!!!
「春ちゃん!?」
「あ、逃げた! 待ちなさいっ、春冬!! 冬花(ふゆか)には言ってるのか!!?」
同時に閃いた春樹さんと二人振り向くが、当に星(犯人)は靴に履き替え、外へ逃げていた。慌てて春樹さんも追い駆ける。スリッパで。
人ん家の玄関アプローチで行われる追い駆けっこに頭を抱えていると、見守っていた柏木さんが緩やかに口を挟んだ。
「お嬢様、旦那様は今お客様がいらっしゃっていますので、リビングにお茶をご用意しますね」
「……お願いします」
後ろを見て見ぬ振りで柏木さんに付いて行く。
鍵は春ちゃんのお母さん……社長である冬花さんに頼みましょう。
* * *
慣れた足取りで懐かしいリビングに入る。
和の外観とは裏腹に、泊まったホテルのような作りとソファ。なのに壁には掛け軸、熊の木彫りなど不似合いな物が置いてある。でもそれは昔から。
リビングから見える庭先も木々が少し大きくなったぐらいで、窓から吹き抜ける風も竹林が囁く音も、静寂が包む室内も変わらない。
この家に来た日、過ごした日、出て行った日……何も変わらない。
四人掛けソファに腰を掛け、ただ庭に咲く花々を見ていると、ポットとカップを盆に乗せた柏木さんがやってくる。テーブルの前で膝を折り、慣れた動作でお茶を淹れてくれる音が妙に心地良く聞こえた。
「お嬢様、やはりこちらにはお戻りになられないんですか?」
ソーサーに乗ったカップを置く音と躊躇うような声に、閉じていた瞼を開く。
膝を折ったまま手に盆を持った柏木さんは心配そうに見つめ、添えられたミルクと砂糖を入れた私はスプーンで混ぜる。
「残念ですが……私は“外”に出たいんです」
「それは奥様の件が……」
カップに口を付ける私に、柏木さんは困ったように頬に手を当てた。口を離すと苦笑する。
「わかってます。お母さんが天真爛漫すぎたせいですよね……でも」
カップをソーサーに置くと顔を伏せ、膝に置いた両手を強く握り締めた。
「“でも”……なんだ? 千風」
「っ……!」
突然のし掛かった重圧と低い声に身震いする。
慌てて立ち上がる柏木さんのように“あたし”も息を呑むと顔を上げた。開けたままのドアの前に佇むのは一人の男。
白髪も混じった髪はオールバックにされ、口髭が目立つが、細い目もあれば威厳を強める代物となる。室内なのに若草の羽織袴を着用し、口を閉じたまま悠然と腕を組んでいるのは実父──荒澤 忠興。
「まあまあ、旦那様。突然で驚きましたわ。お客様はもうよろしいのですか?」
「ああ……八重子、茶を頼む」
「応接室の方でなくてよろしいのですか?」
困惑しながらも落ち着いた様子で訊ねる柏木さんに父は手を振る。
頭を下げた彼女がリビングを出て行くと、廊下に立つ春樹さんと“冬”に父の目が移った。
「千風とだけでいい……春樹達も下がっていろ」
「かしこまりました」
静かな声に一礼した二人は命に従うように背を向ける。間際、冬の目が向けられた気がしたが、すぐ父親の背を追うように姿を消した。入れ替わるように入ってきた柏木さんも一人掛けに座る父の前にお茶を置くと、音を立てないよう戸を閉める。
また静かになったリビングに風だけが吹き通るが、動悸は早鐘を打つばかり。少しの間を置き、小さな深呼吸をしたあたしは立ち上がると一礼した。
「ご無沙汰しております。今日はお忙しい中ありがとうがとうございます」
「……呼んだのは私だ。そうかしこまらなくてもいい」
お茶を啜る音にまた一礼すると座り直すが沈黙が続く。
接客術は『蓮華』で学んできたつもりだが、さすがに五年振りともなる父親相手には何を話せばいいのかわからない。住んでた頃も一緒に遊んだ記憶はないし、元総理だからと株の話をするのもおかしい。そもそも避けてたせいか辞任した理由も知らない。
「……千世の」
ポツリと出た名に思考が止まった。
視線を上げれば庭に目を移した横顔が映り、閉じられていた口がゆっくりと開いた。
「千世の命日……お前は行ったのか?」
「……もちろん、母ですから。 逆に聞きますが……来られたんですか?」
問いへの返事は頷きだけだったが、あたし達は内心驚いていた。
二人が離婚したのは七年前、あたし達が高一だった冬。行動力があった母はさっさと新しい家を見つけ、離婚した翌日には引っ越した。けれど病気が悪化し、二年後の夏に他界。
あたし達は連れ戻され、高校を卒業するまでこの家で面倒を見てもらった。血の繋がった娘なのだからかもしれない。感謝もしてる……でも。
「なんで今頃……」
「少し前から退陣は考えていたが……中々上手く事は進まんな」
「そんなのはどうでもいいです! なんで母と関係ない貴方が……」
疑問が怒声として出たように勢いよく立ち上がる。
握り拳を作った両手も肩も震えるのは混乱しているせいだと思いたい。何より理解出来ない。
実子のあたし達ならまだしも、離婚しているのだから母との縁は切れている。遺骨も母の実家の墓に入ってるし、葬式さえ仕事だからと言って出なかった……離婚理由だって仕事。そんな人がなぜ今こんなことを言い出すのか。
意図がわからず睨みにも近い目を向けると、逸らされていた目が合う。
「千風……お前は病弱な千世と年若いお前を放り出した私を恨んでいるか?」
「っ……!」
淡々としているのに、その声は強い。
威圧感もあるのは、そういう場で生き残ってきた人ならではかもしれない。辞任してもなんでも、やっぱりこの人は荒澤忠興という政治家で、父親という立場にはならない……少なくともあたし達にとっては。
「恨んでいるか恨んでいないかと問われれば……恨んでいます」
ぎゅっと握り締められた両手の震えが“ちー”なのか“ふー”なのかわからない。
でも、正直な気持ちを言わなければ戻ってきた意味も、この五年間も無駄になってしまう気がして、感情がままに言い放った。
「病弱だって知っておきながら……仕事を理由にほったらかして……いったいなんのために結婚したんですか! 大事にする気も助ける気もないなら最初から結婚なんてしないでください!! そんなんだから……あたしが……私がなんのために生まれてきたのかわからなくなるんです!!!」
相手も忘れ、ただただ本音をぶつける。
胸が痛い。喉が痛い。視界が揺れる。涙が零れる。
塞き止めていたものがすべて放出され、子供のように泣き伏す情けない声がリビングに響く中、ひとつの声が聞こえた。
「そんだけぶちまけりゃ、お前も話しぐらい聞いてやれんだろ、千風」
「っ……!」
幻聴だと思った。だって、ここにはいないはずの声だから。
それでも自然と顔を覆っていた両手が外れると、いつの間にか開いていたドアの前に立つスーツの男が目に入る。それは朝まで傍にいてくれた人。千風達(ふたり)を包んでくれる人──。
「総一……郎……さ……ん」
眉を顰めたまま立っているのは間違うことない────恋人だ。