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34話*「教え」

 実家を出る時に“約束”という名の“契約”をした。
 それが一人暮らしの条件でもあったせいか、嫌々ながらも承諾したのを覚えている──それから五年。

 こんなにも早く、その日が来るとは思わなかった。

 

 

 

 


「いやあああぁぁーーーーっっ!!!」

 

 まだ日が昇って浅い時間に響く悲鳴。
 腰が痛いのも構わず“あたし”はバスローブ姿で室内を逃げ回っていた。迫る男から全力で。

 

「てっめぇ、ふー! 散々人に心配かけておいて逃げるとはどういうこった!?」
「そっちが怖い顔してるからでしょ! そもそもアンタなんかに心配してもらいたくなんかないし!! もう、レコーダー切ってよ!!!」

 

 涙目になるあたしを、会社帰りの総一郎はネクタイを緩めながら追い駆けてくる。
 その顔は鬼の形相のように恐ろしく、つい置いてあったクッションを投げつけた。それがいっそう怒らせる原因となり、広いリビングを子供のように駆け回る。
 そんな騒動にコック帽を被ったシェフは戸惑っているが、席に着いている連中は注文をはじめた。

 

「自分、卵はハムエッグで。あ、龍兄さんもですよね?」
「シニタイシニタイシニタイいいいぃぃっ! 同じのお願いします!!」
「記憶があるのとないとでは格差がありますわね。目玉焼きお願いしますわ」
「ははは、お赤飯も頼んであげて。僕はスクランブルね」
「アセトアルデヒド分解には生卵が良いか……ああ、頭いてぇ」

 

 なんで部屋が違う連中がコックを呼んでモーニングタイムしてるのか。社長の日曜って暇なのか。階堂龍介と高階結城の距離が広がってるのは気のせいか様々な疑問が浮かぶが、大半は昨夜ちーが酔い潰したせいだろう。
 ICレコーダーを持つ櫻木隆成に至っては間違いなく嫌がらせ。あたしに報いを受けさせるってとこがまた腹立つ。もっとも原因はあたしなのだから、脳内で土下座するちーを責めたりはしない。

 

 朝を迎え、声を掛けたあたしにちーは涙を落とした。
 それは安堵からくるものと六家に両親……特に総一郎に英 赤司とのことを話した謝罪。もう大丈夫だと過信していたあたしのせいだと苦笑したが、また心配かけてしまったことに胸が痛んだ。

 強制交替出来るようになって甘えているのではないかと今もまだ動悸が嫌な音を鳴らすが、過ぎてしまったことはどうしようもない。次で返さなければと時計に目を移すと、振り向いて制止をかけた。

 

「悪いけど、あたし出掛けるから話なら後にして」
「ああ?」

 

 立ち止まった総一郎は片眉を上げる。
 それは朝食を摂っていた連中も同じで、お茶を淹れていた高階結城だけが瞬きした。

 

「お約束があったんですか? 自分休みなのでどこかご一緒出来ればと思っていたんですが……」
「ごめんなさい。店に顔を出してママと話さないと……あと」

 

 肩を落とす彼女に一礼するとソファに座る。
 テーブル席の連中には背中を向ける形となったが、隣に立つ総一郎に目を合わせるように顔を上げた。

 

「実家に行ってくる」

 

 それだけのことを言うだけで声が震えた気がするのは、あたしとちーの躊躇いと緊張が同じなせいかもしれない。揺れる瞳に映る総一郎も目を見開き、背後からも息を呑むような気配がした。

 

「父に呼ばれてね……ちょっと春冬と行ってくる」
「……行けるのか?」
「英 赤司に会うよりはマシ」

 

 顔を伏せると、室内は調理の音だけになる。
 起床後、連中どころか総一郎にさえ英 赤司について問われることはなかった。恐らく総一郎が詮索しないよう言ったのだろう。それでも父のことを聞いている連中は“千風”は父を“嫌っている”と理解しているのか、戸惑う気配を感じた。一息ついたあたしは振り向く。

 

「てなわけで、お暇なみなさんはパターゴルフでも楽しんできてください」
「パターかよ!?」
「わ、わたくし、したことありませんわ」
「自分得意ですよ! パターを制した者がゴルフを制すると教えられましたから!!」
「龍介、ゴルフ出来ないと結城を貰えないらしいよ」
「ゴ、ゴルフ……って、なんの話ですか!?」

 

 全力で乗っかってきた連中の賑わいに嫌な空気が飛んだようで安堵の息をつく。
 けれど、総一郎は片眉を上げたまま別に視線を向けていた。何かを考えているようにも見え、あたしの眉も上がると目が合わせる。直ぐ口元に弧を描いた総一郎は足を進め、あたしの真正面で立ち止まった。と、思えば腰を屈め、股に膝を割り込ませてきた。

 

「はひっ!?」

 

 突然のことで出た口癖に視線が集中する。卵を頬張る櫻木隆成に至ってはICレコーダーを確認するほど。
 羞恥で真っ赤になった顔を伏せるが、顎を持ち上げられ、実に愉しそうな顔が近付いてきた。

 

「な、何よ!」
「そっちこそなんだ? キスでも期待してやがったのか?」
「バッ、バッカじゃないのっ!?」

 

 手の平にあたる唇と上げられる目に、頬を紅潮させたまま反論する。
 割り込んだ膝も必死に挟んで止めるが、無理やり押し込まれ、咄嗟に両手で押さえた。瞬間、口付けられる。

 

「んっ……!」

 

 遮るものがなくなり、すかさず顎を持ち上げた総一郎は荒く口付ける。
 反対の手で腰を抱かれているのもあるが、一番は身体が逃れようとしない。重なる唇から伝わる熱だけで股間が疼き、気付けば閉じていた股が自然と開いてしまった。が、唇を離される。

 

「結城、ゴルフ場を貸せ。負けたヤツが全員分のホテル代を払う」
「今日は御祖父様が貸し切ってますので連絡してみますね」
「余計行きたくねーよっ!!!」
「龍介、手土産何にする?」
「隆さんなんてフォークで喉元刺して入院しちゃえばいいんだああ!!!」
「龍介様ってお優しいわね」

 

 櫻木撫子の同情に構わず、総一郎は高階結城と会話を続ける。
 けれど、その膝はあたしの股をぐりぐり押し続け、襟元から入った手は胸の先端を摘んでいた。必死に声を抑えるが、身体の疼きは増すばかりで睨む。当然見下ろす男は誇らし気だ。

 

 こいつ、あとで殴る!

 


* * *

 


「あの御門様を殴ったの?」
「いえ、蹴りました。ふーちゃんが。当然のように仕返しされてましたけど」

 

 淡い灯りだけの店内はいつもの『蓮華』。
 けれどお客さんもキャストも黒服もいない。アイスコーヒーに入れたミルクをストローで混ぜる音と、くすくす笑う声だけで、とても静かだ。それが妙に落ち着かないのは“私”も向かいに座る人もドレスではなく私服なせいか。

 

「こう静かだと創設時を思い出すわね」

 

 懐かしむようにカップを手に取った皐月ママは微笑む。
 混ぜる手を止めた私もつられるように笑みを浮かべると、ストローに口を付けた。

 

 五年前に創設した『蓮華』。
 高校を卒業したばかりの私は右も左もわからず、まだ愛姐ちゃんも男で、百合姉ちゃんもいなかった。接客らしい接客も知らなかったせいで、お客さんとのケンカなんて日常茶飯事だったのを思い出す。

 

「何枚反省文を書かせたかしらね」
「ママが悪いんですよ。教えてくれたのはお酒の作り方だけで、マナーの“マ”の字もなく『いってらっしゃい』ですもん」
「マナーなんてものは他人から盗み見て覚えるものよ。御門様みたいな方を相手に、普通のマニュアルが通じると思って?」

 

 ストローを口に含んだまま眉を顰めた私に、足を組んだママは呑気に笑う。
 昔と変わらないその柔らかな笑声を数秒聞いていたが、私がグラスを置くと止んだ。顔を上げれば店では見ない沈痛な面持ちで見つめられ、瞼を閉じた私は一礼する。

 

「六家の皆さんに家のことを話しました。ママ……皐世(たかよ)叔母さんのことも……すみません」

 

 静かな店内とは違い、動悸が早鐘を打ちはじめる。
 なんとか抑えながらゆっくりと頭を上げると、目先の表情は苦笑に変わっていた。

 

「本名で呼ばれるのも久し振りね。あの人……千世姉さん以外だと千風ちゃん達しか呼んでくれないから反応に困るわ」
「母が名付け親ですよね?」
「そ。五月に生まれて、自分と同じ『世』を付けたかったから。おかげで読める人が殆どいなくてケンカしたぐらいよ」

 

 少しだけ頬が膨らんでいるように見えるが、その目は懐かしさを含んでいる。そんな彼女の本名は宇津木 皐世。
 母の妹で、齢はよく覚えてないけど確か六歳差……帝王様よりは上。昔は『皐月』の名で歌舞伎町ホステスとして数々の伝説を創ったって愛姐ちゃんに聞いたことがある。引退した後は各地のクラブのアドバイザーをしていたのもあって『蓮華』の責任者として問題なく受け入れられた。

 

「それにしても御門様って凄いのね。ブラフってわかってても、ああもハッキリと『親戚じゃないのか』って言われると勢いで『はい』って言っちゃうとこだったわ」
「帝王様と隆成さんが成せる技です」
「あと……英様ね」

 

 突然の名前に口を結ぶ。
 嫌な音が鳴るのは自分のなのかふーちゃんのなのかはわからない。それでも膝元で両手を握りしめていると、静かな声が耳に届いた。

 

「ごめんなさい……本来なら私が負うべきことだったのに……」

 

 その声は静かな店内でもやっと聞こえるほど小さい。
 伏せた顔は店の“ママ”としては見せない影が出来ていて、拳を解いた私は首を横に振った。

 

「……いいんです。自分でなんとかしなきゃって、頼ることをしなかった私と母が悪いんです」

 

 母が亡くなるまで彼女は県外にいた。
 それまでも連絡を取り合っていたのに、母は借金のことも病気のことも話さず『また遊ぼうね』って笑って……叶わず逝った。

 

 もっと早くに相談していれば何かが違ったのかもしれない。
 でも意地っ張りな母は頼るということをしなかった。自分が起こしたことは自分で責任を取ると、離婚後は病気を隠して働いて悪くなった元も子もない人。

 けどそれは『教え』のように、血を継いだ私も同じだった。
 誰かを頼ってはいけない。学費は父が持ってくれたけど、生活するためのお金は違う。自分の分は自分でなんとかしなきゃいけない。そう思い続け、皐世叔母さんにも春冬にも相談しなかった。
 結局、どこかで知った仁ちゃんに『蓮華』を紹介され、皐世叔母さんがママだったわけですが。

 

「ふふふ、蛙の子は蛙ってね。春冬くんもいれば、貴女達の行動なんて丸わかりよ」
「ほっぺ引っ張ろう……」

 

 手をグーパーしながら腕時計に目を落とすと、アイスコーヒーを飲み干す。気付いたように皐世さんと席を立つと、出入り口に向かって歩きだした。

 

「実家に御門様……恋人を連れて行かなくて良いの?」
「パターゴルフ行っちゃった人ですよ? そもそも私ですら会うのは五年前振りなのに……」

 

 大きな溜め息と一緒に足取りが重くなる。
 父といっても朝食の席で会うぐらいで会話らしい会話をした記憶はない。何より無口で仕事バカ……そんな人に恋人だからって紹介するのは変な気がする。

 

「それに、今日行けば縁も切れます……だから帝王様は関係ありません」

 

 呟きながら外に出ると眩しい光に片目を瞑る。
 いつもは煌びやかな電飾とドレスコードに囲まれている銀座も、カップルや家族連れで賑わう場所に変わっていた。物寂しさを感じてしまうのはハッキリと見えてしまう世界のせいか。

 

 すると、店の前に白のクラウンが停まり、助手席の窓が開く。顔を覗かせたのはスーツで前髪を上げているけど、眼鏡を掛けた春ちゃん。

 

「ちぃ、乗っ……あああ! だからなんで後ろに乗るの!?」
「あら、春冬くん。今日はハヤテ号じゃないの?」
「二人乗りは捕まるそうです」

 

 後部席。しかも助手席側に乗った私に、春ちゃんはうなだれる。構わずパワーウインドーを下げると、目が合った女性に訊ねた。

 

「皐世さん……皐世さんが『蓮華』のママになったのは……やっぱり私達のためですか?」

 

 それは今まで聞けずにいたこと。
 でも隆成さんに『私達のために出来た店』と言われ、封じていた問いがするりと出てしまった。緊張の音を鳴らしながらなんとか目を逸らさずにいると、ふっと微笑まれる。

 

「そうよ。『蓮華(ここ)』は私なりの償いをするためにある場所なの。私が貴女達に教えられるのって汚いかもしれないけど、そういう世界だけだから」

 

 どこか悲しんでるようにも見える微笑に胸が痛むのは、自分がそうさせているとわかっているから。顔を伏せてしまうと、頬に柔らかな手が触れた。

 

「でもね……辛いってことより、大事な姪っ子達の成長が見れて幸せなのよ。昔も今も……これからも」
「ママ……」
「だから胸張っていってらっしゃい。貴女達はちゃんとやり遂げて、自由の権利を得たんだから」

 

 片方だけだった手が両手に変わり、頬が包まれる。
 それは懐かしい暖かさで、頬を緩めた私は頷いた。皐世さんもまた嬉しそうに微笑むが、助手席に倒れている春ちゃんは不貞腐れているように見える。両手を離した彼女は助手席の窓から人差し指でツンと春ちゃんの頬を突いた。

 

「あらあら、嫉妬?」
「別に……帝王よりはマシ」
「そんなに寂しいなら客として来なさい。ちーちゃんに苛められたい常連の一人として」
「ちょっ、俺以外にちぃに苛めてもらってるヤツがい「ないから、とっとと行ってください」

 

 帝王様式チョップを背中に落とすと、緩んだ顔に皐世さんは笑う。
 私は溜め息をつきながらパワーウインドーを上げるが、窓越しに手を振る彼女に気付き、手を振り返した。スモークフィルムに映る自分が笑みを浮かべていることに、重くなっていた気持ちが軽くなるのがわかる。

 

 進みだす車に、そっと背中をシートに預けた────。

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