『もう……来ないで』
今にも消えてしまいそうな声は苦痛を含み、泣いていた。
それは“もう一人の俺”も同じで、溝がまた深くなるのも感じた──。
「それで三年も会ってないのか? うわー、ご愁傷さん」
「捻り潰すぞ!!!」
軽い声に、テーブルを勢いよく叩いて立ち上がる。
あまりの声と音に喫茶店の客達が騒然とするが、向かいに座る親友は『お騒がせしてすみませーん』と、軽い笑顔で言った。学生時代とは違う緩さに毒気も抜かれ、ソファに座り直すと、携帯を手にした雅は話を続ける。
「しっかし、カズカズが怒るなんて珍しいな」
「そう? 昔からふぅとはケンカするよ。まあ……今回ばかりは話してないせいだろうけど」
「? 何を?」
「ふぅがちぃにヤツと会ってること」
「はあ?」
砂糖を入れたホットコーヒーを飲む俺に、弄っていた携帯から顔を上げた雅は首を傾げる。
「ヤツってのが千風嬢の返済相手なのはわかるけど、そいつと会ってるのを話してないってなんだよ? お前らと一緒で思考や記憶の共有は出来たろ?」
「片方が寝てたり、奥まで引き篭っていたら出来ないよ」
「あー」
そういえばと視線を上げる雅に、カップを置いた俺も頷く。
実際、いま寝ている冬に俺達の会話は聞こえていないし、思考も読まれない。だから寝ている間にあった大事な話や予定は起きてから話すことにしている。裏を返せば、話したくないことは寝ている間に済ませばいい。
「つまり、もう一人の千風嬢が千風嬢に内緒で返済相手と会ってるってことか」
「呼び方がややこしい」
「うるせー。俺がちぃ嬢とかふぅ嬢とか言ったらお前怒「捻り潰すぞ?」
笑顔で拳を見せると、げんなりとした雅はソファに背を落とした。
「で、それの何が問題なんだよ。別に返済相手なんだからどっちで会っても同じだし、もう一人の千風嬢が内緒で会う必要もないだろ」
もっともな意見。だが、事はそう簡単なものではないと前屈みになった俺は重い口を開いた。
「……ヤツは性格が悪い」
「はあ?」
「冬と執事が疲れるほど」
「ああ、そりゃヤベぇな」
自分が入っているのもおかしな話だが、納得の頷きが返される。だが続きを促す視線に、俺もソファに背を落とした。
「あの二人が疲れるほど、ヤツの喋りには“毒”があるんだよ。人によっては精神を病むほどね」
借金取りなら当然かもしれないが、尋常じゃない威圧感がある。
特にヤツの冷笑は裏稼業でもしてるのではと思うほどで、俺達や執事さえ身震いした。そんなヤツを前に、一般人がタダで済むはずがない。
「だからふぅがヤツの毒を一手に引き受けているんだ……ちぃを護るために」
嫌な記憶や思考は誰しも消したくなるが、不思議と永遠に残ってしまう。楽しいことよりも。
でも、俺達は二重人格=二人で一人。片方が眠っている間に嫌なことがあっても、受けるのは起きている方。少なくとも眠っている方は傷つかない。
それを利用するように、ふぅがヤツの毒攻撃を一手に担い、ちぃを護っているのだ。毒に片方(ちぃ)がやられないように。
当然ちぃは知らない。仕事中は仕事のことを考えればいい、替わる頃は寝ている時間だからバレない。話す必要なんてないと、ふぅは思っているのだろう。
「俺からすれば、千風嬢の方が精神面は強そうに見えるけどな」
雲った窓ガラスに溜め息まじりの雅が薄っすら映り、俺も一息吐く。
「本能じゃないかな……我が身可愛さって言ったら変だけど、結局は千風っていう“一人”だから、自衛心が働くんだよ」
「確かに、危機感って言ったらもう一人の千風嬢が敏感か……それで身代わりみたいになってんのか」
「そのために生まれたのがふぅとも言えるしね」
「ああー……だからカズカズが怒ってんのか」
雅と一緒に頷く。
まさに冬が寝ているからこそ言える、考えることが出来る“ふぅ”が生まれた理由。同時にそれは“冬”が生まれた理由にも繋がる気がするのは、雅すら気付いているからだろう。
だが、確証が持てない今はまだ静かに蓋をし、携帯を仕舞った雅も髪をかいた。
「とは言っても、頑固な千風嬢がこっちの話を聞くとは思えねーし、返済が終わるまではそっとしとけよ。完済……そろそろなんだろ?」
手を止めた雅の眼差しは真剣で、同じように目を細める。
「早ければ年内……今月中には。今夜確認するよ」
「お前、合鍵使った不法侵入もほどほどにしとけよ」
「大丈夫。今日はクリスマスだし、不法侵入者《サンタクロース》なんていっぱいいるよ☆」
「サンタクロース信じてる人達に謝れ」
ウインクすると、テーブル下から足攻撃を食らう。
同時にサンタ帽を被っていた数人が帽子を外し、暖房の入ったカフェにはなぜか十二月に相応しい冷たさが包んだ。
今日は十二月二十五日。いわゆるクリスマス。
日が沈みはじめる頃には街のツリーとイルミネーションが一斉に淡い光を灯し、サンタクロースの格好をした人や親子連れが笑顔で行き交っていた。それを羨ましいと思うのは休みではない職業のせいか、楽しかった昔を思い出すせいか。
充実していると言えば聞こえは良いが、社会人五年目。
まだまだ必死に仕事をこなし、不安を振り払っているようにも思えた。でも、今日で不安のひとつは解消されるかもしれないと、ペダルを漕ぐ足も軽くなる。
(それで、雅臣は実家に就職することにしたんですか)
「らしいよー。新橋にある本社で、しかも営業」
冷たい向かい風をマフラーで塞ぎながらマウンテンバイクを走らせる。
傍から見れば独り言を言いながら漕いでいるように思えるだろうが、俺の頭には布団から起き上がった冬が欠伸しているのが浮かんでいた。当然ながら俺と雅との会話は聞こえておらず、かいつまんで話す。もちろん『あの話』を抜いて。
(あの話?)
「千風にアイスケーキ買って行った方がいいかなって話」
(いりませんよ。どうせ昨夜もたくさん貰ってるでしょうし……まあ、わざと持ってきてると言って騙すのも有ですね)
「わあ、Sだあぁ」
絶好調な黒笑顔に、読まれていた思考が心底嫌な顔と激怒する千風に上書きされる。最高の結末(踏まれる)を想像しながらハヤテ号を駅前の駐輪場に停めると、白い息を吐きながら徒歩で千風のアパートへ向かう。
世はクリスマスだが平日。
冬とふぅがケンカしたせいで、ここ三年間は扉越しの声しか聞いていない。でも、仕事前の今夜なら会えるかもしれないと、アパートに近付く度に笑顔になる……が。
「あれ? 電気が点いてない」
道路側にある千風の部屋は周りの家々とは違い、電気どころかカーテンも閉まっていない。時間的に買い物をしていては仕事に間に合うか微妙な線で、冬と目を合わせると極力音を立てないよう急いで部屋の前に向かった。
インターホンとノックを鳴らしながら呼ぶが応答なし。
覗き穴はいつも通り何かに塞がれ、玄関ポストを開いた先は真っ暗。そこで携帯に電話する……と。
(鳴ってますね)
「……だね」
開いたポスト越しに耳をすますと、僅かに音が聞こえる。
自分の携帯を切ると音も止み、冬と頷き合うと合鍵を使って玄関ドアをゆっくりと開いた。
室内は真っ暗だが、外明かりだけでも彼女の靴があること、それ以外の靴がないことを確認する。
さらにキッチン、手洗い、リビング代わりの洋室にも姿はなく、荒らされた形跡もなし。そこで携帯を鳴らすと、寝室代わりにしている和室から音が聞こえた。
(まさかの黒電ですか)
「さっすが、ちぃ」
自分の着信音にトキメキながら襖を開く。
カーテンが開きっぱなしの窓から差し込む僅かな明かりと、黒電を鳴らす携帯の光が布団に丸まっている物体を教えてくれた。
(布団?)
「っ!?」
カーテンが開いているのに、いまだ布団があることに慌てて電気を点ける。
明るくなった和室には布団が敷かれ、毛布を被ったまま丸まっている彼女がいた。大粒の汗と荒い呼吸を零す千風が。
「ちぃっ!」
同じように顔を青褪めると、汗ばんだ額に手を乗せる。
エアコンも入っていないのに熱い。なのに振り払うように手を叩かれた。
「最っ高!」
(春、替わりなさい)
ブレない自分(ドM)に反省しながら、まだ冷静な冬と替わる。
“僕”もまた千風の額や頬に触れるが、やはり熱いし呼吸も速い。さらに、くしゃみや咳まで聞こえ、間違いなく風邪だと溜め息をついた。
(千風の症状は喉から)
「ベンザブロ〇クのCMはいいんで、店と母さんに連絡……?」
相方を無視して、鳴らしっぱなしだった携帯を切ると電話帳を開く。と、服を引っ張られた。力ない手に振り向けば虚ろな千風と目が合った。
「なん……で……アンタ」
言い方的に“ふぅ”に聞こえるが、今はそんな場合ではないと額にデコピンした。
「ったぁ!」
「疑問を持つぐらいなら着替えてください。当然、仕事は休んでもらいますよ。僕以上に怖い皐月さんを相手にしていいなら止めませんが」
にっこり微笑むと、千風の顔がいっそう青くなる。
だが渋々携帯を取り、店に連絡を入れた。ちゃんと休むことを聞いた僕も部屋を出ると、母に仕事の調整を頼む電話をしながら冷蔵庫を開ける。が、ほぼ飲み物しかなく、笑顔で閉じると冷凍庫を開ける。アイスぎっちり。
デコピン連打を食らわすかと、笑顔で冷凍庫を閉めた。
*
*
*
時刻は四時を回る。
外はまだ暗く、東京とはいえ静かだ。うるさい春もひと眠りしているせいか、エアコンと無機質な時計の音だけが響く。
そんな中でも聞き逃さなかった。
通帳や書類の束を置いて立ち上がった僕は、布団で眠る幼馴染の横に座る。常夜灯だけでも充分顔が見えるのは仕事上か彼女だからか。薬のおかげで熱は引いたように思えるが、顔を近付けるとまだ呼吸が速いのがわかる。
「どうしました、千風。水分ですか?」
小声に、千風の目が薄っすら開く。
僕を映しているかはわからないが、ゆっくりと唇が動いた。
「は……ひ」
聞き慣れた返事、口癖。
確かに千風なのに、なぜだか黒い渦が広がる。それを払拭するように、傍に置いていたペットボトルの水を口に含むと口付けた。
「んっ……」
重なった唇は渇いていて、舌先で口を開かせる。
抵抗もなく開いた隙間を通って水を渡せば、コクリコクリと静かな音が響き、また水を含んでは口で渡す。だらしなく零れるモノは水だろうと唾液だろうと舐め取り、水も飲んでいないのに口付けた。
「っん、ふ……か……ず?」
「っ!」
熱とは違う息を吐きながら呼ぶ声に身体が疼く。
次第に口付けを繰り返しながらパジャマボタンを外すと、下着をしていない乳房を掴んだ。汗ばんでいても、久し振りの感触に自然と手が揉み込んでは先端を引っ張る。
「ふあっ……ああぁ」
「はいはい。声は良いですが、汗は舐め取りましょうね」
初々しい反応に笑うと、搾り上げた乳房を舐める。舐めれば舐めるほど先端は尖り、食んで吸い上げれば、いっそう嬌声が響いた。
「あぁぁっん……!」
ビクリビクリと小刻みに跳ねるが、抵抗する力はないようだ。
寂しく感じながら反対の乳房をしゃぶると、パジャマズボンの中に手を入れる。ショーツは既に濡れていて、布越しに底を指で擦った。
「あぁ……ダメ……」
「舐め取らないといけないので聞けません」
腰を浮かせるとズボンと一緒にショーツも下ろす。
常夜灯だけで見る身体もまた厭らしく、秘部を撫でると蜜が零れた。手についたそれを舐め、股間に顔を埋めると、鼻先をくすぐる蜜の香りに身体が熱くなり、唾を呑み込んだ。
「あぁんっ!」
秘芽を舐めると、千風の身体が大きく跳ねる。
だが、“女”の匂いに惑わされたかのように何度も秘部を舐めては指を一本二本と挿し込んでかき回した。その度に跳ねる身体は気にならないし、嬌声も聞こえない。むしろ心地良く感じることに、ひとつのことを思った。
“あの夜”の春と同じだ。
とても危険だと僕が一番わかっている。
あの夜も僕は止めた。でも今は止める声がない。だから大丈夫なんて矛盾している。わかっている。僕は違う。大丈夫。違う違う違う。大丈夫大丈夫大丈夫。違う大丈夫。ちが……じょ……ぶ。
「なんですか……これ……」
僕は知らないのに、春の時に感じた苦しさが全身を伝う。
苦しい、辛い、消えてくれと顔を伏せていると、頭に手が乗った。見上げれば、息を乱しながらも見つめる目があり、涙を零しながら笑う自分が映っていた。
「っ……!」
両手を伸ばすと抱きしめる。
熱のせいか、夢とでも思っているのか、汗ばんだ手が震える背中を撫でてくれた。それが求める方の彼女だとわかると嬉しくて悲しくて──やっぱり僕は“春冬”なんだと思い知る。
「どうして……僕らは“二人で一人”なんでしょうね……ふぅ」
静かに涙を零しながら、最初で最後に思う。
二重人格なんて嫌だった────と。