17話*「許さない」
「英(はなぶさ)金融、ですか?」
アイスコーヒーにミルクと砂糖を入れていた“俺”は顔を上げる。
向かいに座る男は複雑そうな表情で、くしゃくしゃの名刺を見つめていた。
「執事、知ってるの?」
千風の誕生日から数日後。
仕事がない平日に訪れた白鳥不動産の一室で、同級生である白鳥カナさんの執事は眼鏡のブリッジを上げた。その手に手袋はなく、代わりに左薬指の指輪が光る。
「まあ、取引先ですので……逆に牛島様はなぜご存知なのですか?」
「ちぃの借金相手だから」
サラリと言うと、さすがの執事も目を瞠った。
白鳥さんがいたら絶対に言えないが今は不在。それに執事は千風がホステスになったことを知っているし、俺が会いにきた理由も察してくれるはずだ。
「荒澤様……あ、今は宇津木(うつぎ)様でしたか」
意図を汲むように一息吐いた執事の訂正と視線に頷きを返す。
離婚時は混乱を招くからと荒澤のままだったが、家を出ると同時に籍を抜いた千風は今、千世おばさんの旧姓を名乗っている。俺にとっては問題ないが、慣れていない執事は何度か繰り返し、覚えたというように頷いた。
「それで、宇津木様の返済総額を牛島様はご存知なのですか?」
「知ってるよ。並みが激しい給料だけど、ニ、三年あれば完済できる感じかな」
淡々と答えながら、ちゅーと、アイスコーヒーを飲む。
半分ほど呆れている執事は躊躇いがちに訊ねてきた。
「ニ、三年というのは返済額が少ないからですか? それとも……」
「ちぃの給料が高いんだよ。先月は俺の倍だったし、店でもトップ五に入るみたい」
「すごいですね……そんなに牛島様みたいなドM客がいらっしゃるなんて」
「うわあああぁぁん! 白鳥さん、執事が苛めるー!!」
テーブルに突っ伏して泣き叫ぶが『お嬢様はまだお戻りになっていませんよ』と、笑顔が返されるだけだった。
千風の働く店は高級クラブ。セキュリティ上、全室に監視機器があり、接客するのはふぅ。なのだが、仕事しているところを見たことないため、もしかしたらちぃがドMな客を踏みつけている可能性もある。
「客の分際で羨ましいいぃ! 捻り潰してマスコミに売ってやるううぅ!!」
「ひとつ間違えればSPが犯罪者(敵)になるのがよーくわかりました」
テーブルを叩きながら叫ぶ俺に、執事は頷きながらコーヒーを飲む。
だが、カップを置くと同時に気配が変わった。視線を上げると、笑みもない真剣な眼差しが眼鏡の奥に見え、上体を起こすと姿勢を正す。間を置いて、執事の口が開いた。
「取り引き相手として言うなら、英は信頼できます。本社は京都ですが、東京や他の支社の業績や株式も上場ですし、悪いようにはされないかと……ただ、僕個人としては疲れますね。特に経営者が代わってからは」
「……お喋り好きで、嫌にペースを乱してくるからね」
付け足しに執事は眉を顰めるが、俺はストローでコーヒーを混ぜる。
カランカランと氷同士がぶつかり、揺れる黒海に映るのは不機嫌な自分。それが“冬”にも見えるのは、“春冬(ニ人)”で苛立っているからだ。
思い出すのは数日前に会った、まさに“その男”。
定期的に訪れる男は千世おばさんの時も千風の時も軽いノリで現れる。そして決まって世間話をしては神経を逆撫でしていくのだ。
『兄(あん)さんがやってることは無意味で哀れ(あいない)なことですわ。野暮(もさ)いことするより待つことがお嬢はんのためやと思いますけどね』
正論だと思うし、ヤツを非難するのはお門違いだとわかっている。
それでも冷ややかな視線、何かを含んだ笑みに強い不快感と警戒心が増えるばかり……特に。
「冬と相性が悪いんだよなー……」
呟きに執事は首を傾げる。
さすがに二重人格のことは話してないしややこしいため、なんでもないと手を横に振った。引っ掛かりのある顔はしたものの、特に追求しなかった執事は飲み干したカップを置く。
「……来週には公表されますが、既に面識があるのならお伝えしておきましょう」
少しだけ重い語尾にストローを回す手を止める。両手を組んだ執事と目が合った。
「実は……今期から英が“六家(ろっけ)”に加わることになりました」
(『六条政特家』ですか……)
答えたのは脳内ルームで寝ていた冬。
今もまだ眠そうだが、その目には鋭さが見える。視線を執事に戻すと、確認するように呟いた。
「えーと……政府高官とコネクトも持つ、あの六家?」
「やはりご存知でしたか。わかりやすく言えば、日本企業の頂点に立つ六つの家の総称ですね。老舗電気メーカー高科(たかしな)をはじめ、IT界の御門(みかど)、鉄道界の櫻木(さくらぎ)などが当てはまります」
普通なら『どこの六家?』となるが、家業や荒澤家のおかげで覚えがある俺は相槌を打つ。そこでふと気付いた。
「あれ……白鳥“も”、だよね?」
記憶以前に冬も頷いているため間違いない。
その六家に連ねている名と企業主に目を向けるが、執事は苦笑した。
「誠に残念ながら、白鳥不動産(ウチ)の業績が落ち、英と替わることになりました」
「あらまー……」
予想外の話に乾いた笑いしか出ない。
業績第一とされる六家。悪ければ外されるし、良ければ無名企業だって入れる、まさにシビアな世界だ。当然そこから外された企業には大きな傷がつくし、世間体も悪くなるだろう。特に白鳥は高科に次いで長く君臨していたはずだ。
なのに『会長や相模(さがみ)の件がありましたから仕方ありませんけどね』と、今では関係者とも呼べる職に就いている執事はなんでもないように答える。
その目に悔しさや憤りはなく、何かに気付いたように立ち上がると、ノック音と共に扉が開いた。
「失礼します……あ、牛島くん!」
「やっほー、白鳥さん」
ひょっこりと顔を出した白鳥カナさんに手を振る。
スカートスーツの彼女は肩まで髪をバッサリ切ってしまったが、トレードマークの大きなリボンは健在。扉を閉めると、同じ指輪を持つ執事が出迎えた。
「お帰りなさいませ、お嬢様」
「ただいま、真咲」
腰を屈めた彼に、白鳥さんは嬉しそうに抱きつく。
執事もまた抱き返すと頬ずりし、唇に口付けた。それは一瞬だが、バッチリ見ていた俺は、ぢゅーーっ!と、アイスコーヒーを飲み干す。汚いと冬に指摘されるも、羨ましいとコンチクショーが混ざるのは仕方ない。
そんな空気が届いたのか、執事の腕から白鳥さんが顔を出す。
「あら? 牛島くんだけですか? 私、てっきり千風さんもご一緒だと思ってアイス買ってきたんですけど」
「はいはーい! 会いに行く口実……じゃなかった、届けるから任せて!!」
お高そうなアイスの袋に手を挙げる。
満面笑顔の俺に白鳥さんは瞬きしながら首を傾げるが、執事はくすくす笑いながら俺を見た。
「“彼”が東京に住まれる情報は今のところ入っていません。ですが、先の件で上京される頻度は上がるかと思いますので、僕でわかる範囲ならすぐご連絡しますね」
「執事……」
アイスを受け取ると顔を上げる。
呆ける俺に、白鳥さんの肩を抱いた執事は微笑んだ。
「御三方にはお世話になりましたので当然です。なので貴方は変わらず彼女を気にかけてあげてください」
そう一礼した彼の手に手を置いた白鳥さんも同じように微笑む。
それは紛れもない幸せな笑顔。決して許されないと言っていた彼が実らせ掴んだ結果に自然と頬が緩むと一礼を返した。
それでもちょっぴり悔しくて、アイスコーヒーをおかわりしたのはご愛嬌だ。
* * *
時刻は0時すぎ。
スーツに着替えた俺が訪れたのは、色鮮やかなライトに包まれた銀座。平日の深夜だけあって人も車もまばらだが、タクシーに乗る客を見送る美人なお姉さん方も多くいる。そんな彼女達の誘いを断りながら看板もない場所で足を止めると手を振った。
「お疲れでーす」
「なんだ、春冬じゃないか」
顔馴染みの黒服に挨拶すると事情説明。
既に閉店時間(ラスト)だが、インカムでニ、三言話し終えると『U・B』のステッカーが貼られた扉が開かれた。足音もしない赤絨毯を進むと、艶やかな黒髪を簪で留めた和服美人に迎えられる。
「久し振りね、春冬くん」
「こんばんは、たかっだだだだ! ごめんごめん、皐月さん!!」
習慣で本名を出しそうになり、頬を引っ張られる。
慌てて言い直すと営業スマイルに切り替えた顔見知りの女性、千風が働くクラブ『蓮華(れんげ)』の店長(ママ)である皐月さんは自身の頬に手を寄せた。
「ふふっ、ちゃんと場所をわきまえないとね。どうせなら営業時間にきてもらいたいけど」
「身ぐるみ剥がされそうだからやめとく」
「あら、“ちーちゃん”に剥がされるなら本望でしょ?」
「そりゃあもう最っ「変態は帰ってくれる?」
悦びは呆れ半分、殺意半分の声に遮られる。
溜め息混じりにやってきたのは、白のエンパイアドレスに煌びやかなネックレスや髪飾りなどの宝飾を付けた千風。口調や不機嫌顔だけで“ふぅ”だとわかるが、この場に監視類はない=ちぃが寝ていることが窺えた。
けど、スリットから見える脚や肩、踵の高いヒールに自然と膝をつく。
「踏んでくださ「い・や・だ!!!」
土下座するも即答で拒否られる。
見上げると、心底不快そうな顔をするふぅに奮い勃った。
「ああっ……その冷たい目で見下されながら股間をヒールで踏まれるなんて最っ高……でもそれを乞う客どもは死ね」
「勝手に妄想した挙句、“立つ”変換するアンタが死ねっ!!!」
「あはっ、俺の思考が読めるなんてさっすが「黙れドMっ!!!」
「はいはい、汚い言い合いはやめてちょうだい」
パンパンと両手を叩く皐月さんに、ふぅは腕を組んだままそっぽを向く。対して笑顔の俺は座ったまま保冷バックからアイスを取り出した。
「はい、白鳥さんからアイス貰ってきたよ」
「嬉しいけど、わざわざ店に持ってくることないでしょ……でもちょうど良かった。アンタに言っておきたいことがあったのよ」
「え、何な……っ!?」
顔を上げると、勢いよくネクタイを引っ張られる。
身体は前のめりになり、アイスも絨毯に落ちる。締め付けられる首にフツーなら歓喜するが、顔を寄せたふぅは先ほど以上の憤怒を見せながら口を開いた。
「アイツと会うの、やめてくれる?」
赤い口紅のような怒りが混ざった声。
それが何を意味するか理解するよりも先に意識が引っ張られ、ゆっくりと口元に弧を描いた。
「……俺達の勝手でしょ」
細められた彼女の目に、意地悪く笑う“僕”が映る。
立ち上がりながら締め付ける手を跳ね退けると、詰まっていた息を吐くようにネクタイを解いた。
「というか、あんな朝早くに約束するのはどうかと思いますよ」
「っ、人の携帯を覗き見るヤツに言われたくないわ……そもそもアンタには関係ないでしょ」
唇を噛み締める彼女は震えている。
それだけで黒い何かが渦巻きはじめた僕は、笑みが消えた口を開いた。
「ええ、関係ないですよ。でもそれなら“もう一人”はどうなんです? 貴女ちぃに「冬っ!!!」
悲鳴にも近い大きな声と共に頬を引っぱたかれる音が響く。
それはいつぞやのケンカを止めた時に似ているが、春ではなく僕。ちぃではないふぅも涙目で睨んでいる。痛みと熱を帯びた頬に構わず視線を向けると、叩いた手を胸元で握りしめたふぅは顔を伏せた。
「それ以上いったら許さない……もう……来ないで」
消えてしまいそうなほど小さな声。
それは拒絶にも聞こえ、ただ遠ざかる背中を見つめる。次第に痛みが増してくる頬に手を沿えると、皐月さんがタオルを持ってきてくれた。
「景気の良い音だったわね。でもやっぱり場所は考えてもらいたいわ」
「……“俺”もそう思うんだけど……なんだろ……抑えが効かない」
冷たいタオルよりも胸のざわつきに震える。
まるで“あの夜”の自分と反対になったかのように、替わることも止めることも出来なかった。何より奥に引っ込んでしまった冬に纏わり付く黒い渦に一抹の不安を覚える。
「はあ……千風どころか相方まで気にかけるのは難しいよ」
溜め息混じりに呟くと、溶けたアイスが涙の跡を消すように赤絨毯に広がる。
弁償も気にかけた方がいいだろうか────。