13話☆「スイッチ」
※千風視点
『春ちゃんじゃ……ないの?』
『アンタ……“何”?』
“私達”の呟きに、ゆっくりと弧を描く口元。血だらけのまま“あたし達”を映す瞳。鳴り響く蝉の声すら消散したように感じた夏の日。
“もう一人”の幼馴染が生まれた──。
日が暮れるのが早くなってきた秋。
空の色が青から橙へ変わる様を楽しんでいると、流れてくる雲が目に入った。
「ソフトクリーム……」
「え?」
呟きに、白鳥さんが顔を上げる。
身体は後ろの彼女の席側に、顔は窓の外に向いていた私は人差し指で雲を指した。
「あれ、ソフトクリームに似てません?」
「んー……ああ、上の方がちょっとくるんってなってるところですか?」
「はひはひ」
同じように人差し指で半月を描く白鳥さんに笑顔で頷く。
進路面談が終わった人は帰って良いと言われているが、まだ白鳥さんの番が来ていない。昨日のお詫びにアイスを奢ってくれる約束をしているので、待つのは苦じゃない。
「荒澤さんは就職なんですね」
「はひ? ああ、一応……」
わくわく気分で両足を揺らしていると、白鳥さんの目が私に、というより机に置いていた就職用封筒に移る。咄嗟に身体を前に戻すと鞄に仕舞おうとするが、前のめりになって覗き込まれた。
「どちらに就職されるんですか?」
仕舞う手が止まる。
高三にもなれば、ごく当たり前の質問。特に今は同じ話題で学年中が持ちきりのため、窓に映る白鳥さんの目も興味津々な子犬のように見える。
しばらく、と言ってもほんの数秒考え込んだ私は向き直すと微笑んだ。
「秘密です」
白鳥さんは驚いたように瞬きするが、座り直すと苦笑した。
「そう言われると気になります」
「白鳥さんには言えません」
「ええ? ほ、他の人は?」
「んー……執事さんと安心さんはいいかな」
「ま、真咲はいいんですか!?」
意外な人物がOKなことに慌てふためくのが面白くて笑ってしまう。と、白鳥さんは斜め前、私の隣の席を見た。
「牛島くんは?」
今は空席の主の名に、封筒で口元を隠す。
教室は賑やかな会話が行き交っているのに、この場所だけ無音が訪れたように感じた。空も徐々に深い夕焼けに変わり、私と白鳥さんに影が掛かる。じっと見つめる目に封筒をゆっくり離すと、囁くように言った。
「春ちゃんは……ダメ……絶対」
精一杯の笑みを浮かべるが、下手だったようで怪訝な顔をされる。それでも維持し続けると、封筒を握りしめた。
春冬に進路のことは何も言っていない。
聞かれなかったのもあるが、一番は知られたくない。先生が必死に止めるように、きっと止めるから。それこそ“あの夜”以上に……いつかバレてしまうだろうけど、今は教えたくなかった。
「これ以上……迷惑かけられない」
「荒澤さ「千風嬢ーーーーっっ!!!」
呟きに白鳥さんが反応するが、大きな声と扉を開く音に遮られた。
当然クラス全員が振り向くばかりか静まり返り、扉を開いた人物。息を乱す安心さんに視線が集中する。額の汗を拭った安心さんは顰めた顔で、さらに大声で言った。
「千風嬢! 春冬が筧と東雲とケンカしてんだ!! 止めてくれ!!!」
「はひー、そういうのは先生にお願いしまーす」
棒読みで答えると、教室は乾いた笑いになる。
廊下で事情聴取とやらをされて春ちゃんにも聞くと言っていたし、何度か小競り合いを起こしている三人の仲は悪いとクラス全員が知っている。珍しいことじゃない。
なのに、前髪を荒々しく掻き混ぜた安心さんは大股で私の元へやってきた。
「止められたら呼びにこねーよ! 今日はマジで殴り合ってんだ!! もう千風嬢に頼るしかねーんだよ!!!」
「三人の金●を引っこ抜いていいなら」
「おふっ!」
最善の手に、安心さんどころか男子全員が股間を押さえた。
白鳥さんは首を傾げているが、他の女子は同情の眼差しで真っ青な顔をした男子を見つめている。安心さんも震えているが、ハッキリと、でもどこか怯えたように私を見た。
「マジでやべーんだって……ありゃ……はじめて“カズカズ”が現れた時と同じだ」
瞬間、私は、“私達”は教室を跳び出していた。
*
*
*
「春ちゃん……もういいよ、ひっく……やめてよぉー……」
「マジでやめろ! “ソイツら”死んじまうぞ!?」
鳴り響く蝉と同じぐらい泣き叫ぶ私と、蹲りながらも必死に止める安心さん。
中学三年の夏。私達三人は学校帰りに大学生ぐらいの男達に理由もなく絡まれ、路地裏に連れ込まれた。人数が多い上、私が人質になったせいで春ちゃんも安心さんも殴られるがまま。それがどれぐらい続いたかはわからない。
でも今、殴っていた男達は血だらけで転がっている。
ただ一人、背中を向けたまま佇む男は自身の血と返り血に染まりながらも、泣きながら許しを乞うリーダー格の男を容赦なく踏み潰していた。笑顔で。
目の前にいるのは誰?
血だらけでも笑ってるのは誰?
それが幼馴染だと、春冬だと気付くには時間がかかった。
だって、何が起こったのかわからなかった。殴られながらも暴れていた春冬が突然静かになって……瞬く間に倒したから。
何より怖い。いつもの締まりがなく、踏まれ、罵られ悦ぶ顔とは違う。
とても冷ややかで、なんの感情も持っていない。ただ、目の前の“敵”を潰すことしか考えてない。このままじゃ壊れてしまう。私の声も届かない別人に……別人?
その時、ふーちゃんが何かを感じ取ったように言った。
相手の動きや隙を見て倒してる。怒りで正気を失ってるわけじゃない。むしろ冷静だと。
私はすぐ否定した。
本能で動いて避ける短気な春ちゃんはそんなこと出来ない。冷静だと言うなら、今まさに分析しているふーちゃんだ。ふーちゃんのような人が春ちゃんにもいるなら……そういえば、ふーちゃんがいることを知った春ちゃんは羨ましがっていた。自分にも“もう一人”がいれば、私の気持ちがわかるのかなって物悲しそうに……え?
「春ちゃんじゃ……ないの?」
涙で霞む中、目の前の背中がピクリと動いて止まった。
そのままゆっくりと振り向く姿は毅然としていて、血だらけなのに大らかにも見える。私の“知らない”幼馴染に意識が遠退いていくのを感じた。
「アンタ……“何”?」
意識が替わり、涙を拭うことなく“あたし”は顰めっ面で訊ねる。と、目を一瞬見開いた“彼”は笑みを零した。
「……“貴女”と同じですよ? “僕”も──“春冬”だ」
自嘲気味に聞こえたが、その瞳は真っ直ぐあたし達だけを映していた。
それが“冬”との出会いであり、生まれた日。あたし達のように、一人が二人になった日。
そして、自分が枷なのだと知った日。
*
*
*
校則など忘れ、全力で廊下を走る。
指導室に近付けば近付くほど野次馬に塞がれ、必死に通してもらうと怒声が聞こえた。
「いい加減にしろっ、牛島!」
「なんて力だ……こらっ!」
格闘する先生達の声に雑踏から抜け出すと足が止まる。
予想通りというか、控えめにいっても酷かった。
壁にはヒビが入り、何枚も割れた窓ガラスには血痕。床に飛び散った血とガラス破片の上に膝を付いている筧(かけ)さんは息を荒げ、苦渋の色を浮かべている。仰向け大の字で転がっている東雲(しの)さんもまた、ひときわ怖い顔で目前に佇む男を睨んでいた。
髪はボロボロ、制服も皺くちゃ、擦り傷だらけ。
でも、どこか余裕を含んだ笑みを浮かべているのは──春冬。
ゾクリと、覚えのある寒気が走った。
男の先生二人がかりで押さえても僅かな隙間と急所を突いて払い倒すのは“春”でも“冬”でもない。状況によって替わり打破する“春冬”だ。
「ああああ゛あ゛ぁぁぁ!!!」
冷静に見えても雄叫びは苦しさを含み、目は取っ組み合う東雲さん、敵しか見ていない。震える身体を両腕で抱きしめると、隣にいた安心さんに訊ねた。
「なんで春ちゃんは……春冬はケンカになったんですか?」
一番聞きたかったこと。聞かなきゃいけないこと。
事態に手一杯だったのか、天井を見上げた安心さんは思い出すように呟いた。
「千風嬢も護れないヤツがSPって煽られ……じゃ、ねーな。指導室から出てきた時から機嫌悪かったし……あ、千風嬢の就職先を知りたがってたぜ」
「っ!?」
心臓が跳ねると、春冬に払われた先生。進路担当に目を移すと『ごめん』と言うように顔の前で両手を合わせた。呆れもするが、職種を知られていないだけマシかと内心ほっとする反面、胸が痛んだ。
「やっぱり……私達か」
「? 千風嬢……!?」
重い息を吐くと、足が前に進む。
羽交い締めで止める先生は驚くのに、暴れる春冬は気付いてもくれない。いつも締まりのない笑顔を見せるくせにと、大きく息を吸うと叫んだ。
「春冬っ!!!」
「っ!?」
怒鳴り声に、ピタリと止まった春冬が私を見る。瞬間──頬を引っぱたいた。
木霊する鈍い音にその場の誰もが驚き、静まり返る。
割れた窓から吹き通ってくる風が熱を帯びた手の平を冷やしていると、呆然としていた春冬が赤くなった自身の頬に手を添えた。そのままゆっくりと顔を上げる。
「あれ……ちぃ?」
その目は私を映していた。
口調もよく知る春ちゃんのもので、安堵の息をつくと満面笑顔、容赦なく股間を蹴った。
「あはっ!」
「おふっ!」
いつもの歓喜を上げた男とは違い、筧さん、東雲さん、野次馬どころか先生。外を見ていた安心さん以外の男が自分事のように呻いて屈んだ。
そのせいで先生も羽交い絞めを解いてしまい、春ちゃんが大きくよろける。支えるように私は抱きしめた。
「おっと!」
むしろ倒れそうになるが、三歩ほど下がったところで春ちゃんが堪える。
半開きになったシャツの間に顔を埋めるが、汗くさくて冷たい。全裸にしてやろうかと思う。でも、規則正しい心臓音に笑みが零れると、背中に回した手で股間を握った。
「あふっ!」
「ごめんなさいは?」
反動で顔を上げ悦ぶ春ちゃんに笑顔で促す。
小刻みに震えながら『な、何が?』と、とぼけるので、伸ばした指先で肉棒を摘んだ。
「ああぁっ!」
「ごめんなさいは?」
「ご、ごめんなさいいぃありがとうございますううぅぅっ!」
「よっし」
「あはんっ!」
ちゃんと謝ったご褒美に両手で肉棒を握る。
誰もが唖然と、一部は真っ青な顔をしたが、変わらず悦んでいる幼馴染に内心ほっとした私は決意した。
それからは当然お説教と保健室。
包帯まである筧さん、東雲さんとは違い、春ちゃんはガーゼ程度。指導室で反省文を書きながらまた何か言い争っているが、そこまで面倒見きれないので鞄だけ渡した。とっくに放課後なのです。
「じゃ、私は白鳥さんとアイス食べて帰りますね」
「ええ!? 俺も行くよ! 二人じゃ危ないって」
「安心さんと執事さんが一緒なので大丈夫です」
「帰れって電話するから待って!」
眼鏡をしていない春ちゃんは一緒に廊下へ出ると携帯を取り出す。咄嗟に奪った私は、慣れない手付きで探し当てたカメラボタンを押した。
「アンタ……記憶あるの?」
「……どれのことですか」
自分で替わった“あたし”に春が驚いたのは一瞬。
すぐ瞼を閉じ開けば、切れ長の目と丁寧な口調。問いたかった“冬”へと替わってくれた。
「さっきのケンカ……覚えてんの?」
「ええ……懐かしい感覚でした。でも、あの頃よりは自由に動けて……もっと捻り潰してやりたいなって思いましたね」
あの時のように自嘲気味に笑うが、あたしはガーゼのない頬。叩いたせいか、窓から射し込む夕焼けのせいか赤い頬を見つめると、そっと指先で触れた。
「あたし達のことでケンカになったって?」
「春が短気なんですよ。大好きなちぃのことになるとすぐムキになる」
「春だけ? アンタも結構好きでしょ……あたしのこと」
恥ずかしさ半分で訊ねるが、冬の口は“へ”の字。さらに眉を深く顰められたばかりか溜め息まで吐かれた。
「自惚れ……ですね」
「自惚れか……でも、ちぃよりは好き?」
「ですね」
即答に驚くが、不思議と胸を撫で下ろす自分もいた。
何より冬はやはり春冬だと納得していると、触れていた手を取られ、手の平に冬の頬が乗る。熱を帯びた眼差しから逸らせずにいると、少しだけケンカで切れた唇が開いた。
「ふぅは? 僕のこと……好きですか?」
いつもより弱々しく聞こえる声に胸が締めつけられる。でも、そっぽを向いた。
「春よりは好き。でもアイスがもっと好き」
即答すると冬は目を丸くする。だが、すぐ苦笑しながら手を伸ばすと、あたしを抱きしめた。
着替えたおかげで汗くさくはないし、あったかい。でも、心臓の音が少しだけ速い。あたし達を好きでいてくれる春冬の音。
その“好き”が“スイッチ”だと春冬は知っているだろうか。
あの夏の日も、動画を撮りながら暴力を受けそうになった“あたし”を見て豹変したことを覚えているだろうか。恐怖する“ちー”と違って、嬉しくて泣いた“あたし”を知っているだろうか。
知らなくていい。
冬が生まれたことでもっと護衛の枷を嵌めてしまったこと、離れる決意をしたこと、水家業(ホステス)になること。何も知らなくていい。これ以上、巻き込みたくない、自由になってもらいたい。
そう厚い胸板に顔を埋めると、静かに涙を零した────。
※次話、春冬視点に戻ります