10話*「護衛と執事」
数えたら、十八年だった。
あと何十年あるかわからない人生をまだ十八年しか生きていないのに、とても長く感じるのは、今年もまた忘れられない夏を刻んだからだろう──。
「やっぱこっちだったか」
真夏の暑さも鳴き続ける蝉も落ち着きはじめた八月下旬。
よく知る声に瞼を開けば、中腰になった親友に見下ろされていた。眼鏡をしていない目を擦ると、欠伸をする。
「やっほー、雅……ちぃの家で何してんの?」
「それはこっちの台詞だ。お前まだ番犬してんのかよ」
大きな溜め息をつく雅よりも空が映る。
さっきまで広がっていた青空は、ひと眠りしている間に夕暮れへと変わり、涼しい風が吹き通った。竹林をざわつかせるここは通い慣れた荒澤家。幼馴染の私室前で寝転んでいる俺は大きな背伸びをする。
「番犬じゃなくてマットレス。なのに今日は一度も踏まれてないんだよ……」
「おばさん亡くなって一月(ひとつき)……そう簡単に割り切れるもんじゃねーか」
俺の発言を華麗にスルーした雅だったが、その眼差しはどこか寂し気だ。上体を起こすと、柏木ばっちゃんが用意してくれていた麦茶を飲みながら閉じきった引き戸を見つめる。
高校最後の夏休み。
友達と遊び回り、家族との楽しい旅行や自由な一日をのびのび過ごせる学生だけの特権。けれど、予想外という名の悲劇は前触れもなく訪れた。千風の母──千世おばさんの死が。
昨年の冬に体調を崩し、入院を続けていたが、治療の甲斐なく先月亡くなった。
葬式も終わり、アパートを引き払った千風が荒澤家に戻ってきたのは今月上旬。まだ未成年なのもあるが、千世おばさんの両親は既に他界、唯一の肉親である叔母さんも県外に住んでいて、皮肉にもまた荒澤家(ここ)に戻るしかなかったのだ。
もっとも、おじさんとの進展は何もない。
おじさんの忙しさは変わらないし、千風も学校がない日は殆ど私室から出てこないからだ。毎日マットレスしている俺ですら会えるのは一瞬で溜め息が零れる。と、腰を上げた雅が引き戸をノックした。
「おーい、千風嬢ー、俺ー、安心院だけどー」
「ばっちゃんにぐらいしか反応しないよ」
「アイスいらねー? ハーゲンダッチュ」
「なっ!?」
千風ホイホイNo.1アイテムに、ぎょっとする。
見れば雅の手にはコンビニ袋があり、薄っすらとアイスのパッケージが見えた。ごくりと喉を鳴らすと、閉ざされていた引き戸がゆっくりと開く。なぜか俺の前ではなく、端の戸が。
あそこ戸棚なかったけと思うより先に、にょきっと出てきた手に、雅は袋を渡した。
「おう、気にすんな。またな」
「うわああぁ~ん、ちぃ酷いよ~!」
半泣きで起き上がった俺は慌てて駆け寄るが、無惨にも戸は閉じてしまった。数秒の沈黙後、ゆっくりと口元に手を寄せる。
「ああ、もう……Sなんだから」
「お前ってホントMだよな……つっても、さっきのはもう一人の千風嬢だと思うぜ」
「え、ふぅ?」
意外なことに瞬きすると、引き戸に目を移す。
戸から出てくるのはいつも“ちぃ”。“ふぅ”はちぃが昼寝をしている時、たまに手洗いに出てくるだけだ。交替条件を考えれば当然だが、たまにはふぅも出てくればいいのに……ちぃが寝ている今なら自由だよと、“もう一人”が囁いた気がした。
「あ、そうだ」
意識を引き戻すように振り向けば、携帯を見ていた雅と目が合う。
「明日、白鳥嬢と執事に会う約束だったろ? 悪いけど俺、ゲームの発売日でさ。取り行ってから合流するわ」
「へー、てっきり通販かと思った」
「バカヤロウ、自分の手で受け取ってこそなんだよ」
真剣な顔に、配達員から受け取るのと一緒じゃないの、とは言えなかった。
そんな雅と千風と三人で明日、同級生である白鳥さんと遊ぶ約束をしている。ぶっちゃけ狙いは彼女に仕えているという“執事”に会わせてもらうこと。不動産王の名を持つ白鳥財閥ならではと思うが、家政婦とも秘書とも違う役職に興味がわいたのだ。
「執事なんて、執事喫茶にしかいないもんだと思ってたよ」
「海外には専門校もあるみてーだが……そこは本人に聞けよ。仕えてるもん同士いいだろ」
「良いね……」
響きの良さに頷くと、雅は苦笑しながら背を向ける。が、その場で立ち止まった。
「お前さ……進路希望出したか?」
「? うん。家業(SP)以外ないしね」
控えめな問いに即答する。
『U・B(ウチ)』は母さんが創設者なのもあり歴史は浅いが、努力と負けん気もあって今では経済界や芸能界からも信頼されるようになった。幼い頃から一員として鍛錬してきた俺にとってはその道が当たり前で、それ以外になる気もない。一人っ子なのもあり、必然的に継ぐことにもなるだろう。
その流れは雅も同じはずだが、何も言わないことに首を傾げた。
「雅は……どうすんの?」
あえて『継がないの?』とは聞かない。
それがどれだけ重いかは自分自身知ってる。それでも“親友”の背を見つめていると、数秒の間を置いて振り向いた。苦笑と共に。
「今んとこ大学だな。お前と違ってあんま関わってねーし」
「……視野広がっていいんじゃない。最悪、ウチで働けばいいよ。営業課で」
「なんで営業なんだよ……俺、千風嬢よりはひっきーじゃねーぞ。今日だって『プリンセスレリーヌ』の舞踏会レリーヌフィギュア取りに行くんだからな!」
「帰りに事故ればいいと思っ!?」
容赦なく頭を叩かれた。
手で押さえたまま睨むが、意地悪く笑われるだけで、一息ついた俺も同じ笑みを返した。それが幼馴染とも親とも同級生とも違う、気兼ねなく通じ合える俺達だ。
今度こそ去って行った背から引き戸に目を移す。
影も形も音もしない部屋。昔と違って容易に開けなくなったのは“あの夜”があるからだろう。思い出して拒絶されるのではないかと……また離れていくのではないかと恐れている。
それなら待っていた方が、監視していた方がいいと、引き戸に背を預けるように座り込んだ。
「進路……千風はどうするんだろ」
遠からずやってくる将来。
きっと出て行くことを選ぶ彼女に押し寄せる不安は大きく、膝を抱えたまま顔を埋める。暗闇の奥底で、冬もまた目を伏せているのが見えた。
* * *
「大学に行くと言われたら?」
「一緒に行くね!」
「女子大でしたら?」
「うわあああぁぁん! 白鳥さん、執事が苛めるー!!」
「はひー、もっと苛めて良いですよー」
半泣きの悲鳴に白鳥さんは振り向いてくれたが、棒読みの千風に手を引っ張られ、再びウインドーショッピングをはじめた。『苛めて』を聞けただけでも悦んでいると、隣の男が笑う。
「言葉攻めがお好きなんですか?」
「それも良いけど、一番は踏んでもらうことかな! 特にお尻で踏まれるのは最っ高!! 主人持ちの執事ならわかるよね!!?」
日曜の繁華街、満面笑顔の俺に周囲が一斉に引いた気がした。
だが、一八十はある長身に、左わけされた濃い茶髪は右側が目に掛かるほど。そして、リムレスの眼鏡を掛けた白鳥さんの執事、巴(ともえ) 真咲(まさき)は丁寧な会釈をした。
「残念ながら、カナお嬢様にそのテの性癖がございませんので同意し兼ねます」
「えー、やっぱり執事もS?」
「お嬢様のお望み次第です」
綺麗にかわされたが、顔を上げた笑顔には黒いものも見えた。
そんな彼はニ十三歳。九歳の頃から白鳥さんに仕え、普段はテレビでも見るような執事服=燕尾服を着ているらしいが、外だと職務質問されるからと今日は私服。
他にも朝四時に起きて朝食作ったり庭の手入れしたり、書類仕事もあるなど、なんでも教えてくれた。
「うへ~、さらに白鳥さんの護衛までするとか、スペック高すぎだよ」
「ご冗談を。会話しながら、しかも目を逸らすことなく気配だけを探ってらっしゃる本職には負けます」
隣を歩く執事の視線が俺を捉える。
口元は笑っているのに、僅かに細められた目は笑っていない。冬ってこんなヤツなんだろうなと思いながら、前を歩く女性陣を見つめる。
何を話しているかはわからないが、二人は楽しそうに笑っている。
千風の笑顔を見るのは久し振りで、変わらずアイスに目を輝かせては買うか買わまいか迷う様子はこっちが笑いたくなるほど。それが嬉しい反面どこか悔しいのは、俺が出来なかったことだからだろう。
「俺も執事の職がよかったな……」
呟きは混み合う中でも届いたのか、執事の目が丸くなる。
護衛と執事、常に主人の傍に居続けることに変わりはないはずだ。でも、献身的に仕える執事とは違い、護衛は護るためにいる。休日だろうと染み付いた身体は周囲の目や動きを追い、神経を尖らせてしまう。主人だけを考えていればいいわけじゃない。
「牛島様は荒澤様のことが好きなんですね」
突然のことに、何を言われたのか一瞬わからなかった。
張り詰めていた空気が解けていくように振り向けば、優し気に微笑む執事と目が合う。そして、繰り返すように彼は言った。
「牛島様は荒澤様を……一人の女性として好いていらっしゃるのですね」
静かな口調。それでいて確信を突いた言葉があまりにも率直すぎて、呆気に取られる。それでも自然と口が開いた。
「うん……好き……大好きなんだ……俺は」
か細く言うと、ゆっくりと視線を戻す。
集中が途切れ、視界に千風が映るだけで高揚感に包まれる。好きだと、抱きしめたい衝動に駆られる。仕事を忘れ、ただ一人の男になる。
「でしたら、執事には向いていません」
「え?」
ハッキリとした断言に振り向けば、立ち止まった執事は困った様子で俺を見た。
「確かに僕は毎朝お嬢様を起こしたり送迎したり、着替えやお風呂の手伝いをします。お望みなら添い寝も」
「すっごい羨ましいんだけど」
「でもそれは“仕事”の領域。主人に忠実であることが執事の鉄則であり、そこに恋情を抱いてはいけません」
冷ややかになった声と共に、眼鏡の奥にある目が細められる。
突き刺さる視線につい身構えてしまうと、執事はそっと人差し指を口元に付けた。
「主人との恋愛は──決して許されないのですよ」
真っ白な手袋に包まれた指先。
それが何を意図するかはわからないが、彼の目は白鳥さんを映している気がした。
「……て、言ってた執事が白鳥さんと一緒に試着室入ったのはどう思えばいいのかな」
「手伝ってるだけでしょ」
「えー、フツー男女で試着室に入ったらエロいことしない? 俺、絶対犯すよ?」
「冬、替われ」
苦虫を噛み潰したような顔をするのは“ふぅ”。
試着中の白鳥さんと執事を待つ店内(ブティック)に防犯カメラがあるせいだか、これ以上機嫌を悪くさせないよう替わることにした。一息ついた“僕”は、近くにあった服を何点か手に取る。
「ふぅも買います? その服、中三の時に買った物でしょ」
「余計なお世話」
ぷいっと顔を逸らすふぅはチェック柄のチュニックに黒タイツ。高三にしては幼い服装だ。しかも髪はゴムで二つ結びしただけで、ほぼ化粧もなし。監視機器を嫌った引き篭もりと、農業好きが祟ったせいだろうが、さすがに我慢ならず他の服と一緒に合わせる。
「興味ないのはわかりますが、将来のために少しは気にしてください……貴女のことだから家を出て働くんでしょ」
淡々と言うと、ふぅの目が丸くなる。それは肯定だった。
春は恐れて口に出さないが、ちゃんと“これから”を聞いておかないと“僕ら”が困る。これからも傍に、護り続けるというなら尚更だ。
だが、ふぅは黙り込んだまま目を伏せている。
内心溜め息を零しながら服を置くと、背後に回って抱きしめた。ビクリと肩が揺れ、離そうと身体を動かされる。それを止めるように耳朶を食んだ。
「っ!」
「別にいいですよ。どの道を選んでも付いて行くので」
「ストーカー……っ!」
耳朶を舐めながら囁けば頬を赤くし、睨まれる。
それは僕をゾクゾクさせる、もっと苛めたくなる目。後ろからチュニックの中に手を差し込み、タイツ越しに秘部を擦れば、ふぅの吐息が漏れる。
「ちょ……こんなとこで」
「僕には関係ないですね」
腰を捻る彼女を片手で押さえる。
客は試着中の二人を除けば僕らと数人。店員は二人。その内の一人は客と、もう一人は電話中。監視カメラがあろうとも、ずっと見続けることは不可能だし、壁際に寄っている。まあ、痴漢のテと言われればおしまいだが、徐々に濡れだすタイツと指にくすりと笑った。
「見られてた方が濡れやすいんですか?」
「バカ言わ……っ」
「いいんですよ、下着やタイツどころか僕の手を濡らしても。その後トロトロになったナカに大きい栓をしながらゆっくりお話しましょうか……これからについて」
うなじを吸いながら、タイツごと指を秘部に押し込む。
喘ぎを我慢するようにぎゅっと瞼も口を閉じたふぅはイったようにも見えた。が、蕩けた顔は一瞬。すぐ鬼の形相で睨まれ、苦笑しながら身体を離すと降参の手を上げた。
「はいはい、やりすぎましたよ。お詫びに服とアイスを買ってあげますから」
「な、なんで服まで!」
「アイスは絶対なんですね。まあいいですけど、ブルドーザーが突っ込んで来るかもしれないので、もう少し奥にきてください」
「どういう状……?」
怒声に勢いがなくなったのは、眼鏡を取った僕が鋭い目で外を見ているからだろう。人も車も多く行き交う大通り。いたって平和にも見えるが、きな臭さに顔を顰めた。
「チョコレート・チョコレートチップ・チーズシフォンヌケーキ」
謎の呪文に思考が停止する。
振り向けば、僕の眼鏡を掛けたふぅが不満そうに見上げていた。
「……で、よろしく」
淡々と言うと、試着室から出てきた白鳥さんの元へ歩いて行く。
恐らくアイスの名だろうなと思いながら苦笑すると、服を何着か手に取り、僕もまた気付いているであろう執事の元へ向かった。
気配や視線。一般人とは違う感覚はわかる。
だが、まさか白昼堂々と拉致する輩がいるとは思わなかった────。