09話*「大馬鹿もん」
それは夏の眩しさではない、春の暖かさ。
いっせいに花開く周りを他所に、ゆっくりゆっくりと蕾を開き、ひときわ綺麗な花を咲かせる。見た者を虜にするほどの微笑に目を奪われるが、駆け上ってくるのは恐怖。数時間前の千風と同じ──とびっきりのS顔だ。
「大変申し訳ございませんでした」
「はい?」
花の蜜に掛かった下等物のように土下座し(跪い)た。
* * *
濡れたシーツを剥がし(ぎゅっと抱きしめた)爆睡中の千風を着替えさせ(ぎゅうぅと抱きしめた時の肘攻撃最っ高!)洗濯機を回している間に合鍵を作ればOK! ── なんて目論見は二人っきりじゃないと出来ないわけで……いや、それよりも。
「春冬くん、お砂糖とミルクは?」
「いらない……って、言ってる側からなんでミルク入れてんの!? しかも大盛り!!?」
「あ、お砂糖と間違えちゃった」
「うん、両方いらないけどねあああぁぁ待ってええええぇ!!!」
慌てて洗濯機のスイッチを押すと、スプーンに小山を乗せた千世おばさんからカップを奪う。が、時既に遅し。こんもりと砂糖山が聳え立っていた。黒海という名のコーヒーなど微塵も見えないほど。
立ち尽くすしかない俺とは違い、カーペットに座るおばさんはのんびりと小首を傾げた。
「やっぱり料理って難しいわね」
「それ以前の話だよ! 何っ、セックスした罰に糖尿病になれって!? いいよいいよ、喜んでなるから千風をお嫁さんにください!!!」
「千風ちゃんと忠興さんが良いって言うならね」
「マジで!?」
まさかの了承に目を輝かせると砂糖山に口を付ける。が、違和感から離した。
「なんでおじさんのもいるの? ……別れたのに」
意地悪な問いだと、言ってから思う。実際おばさんは顔を曇らせ、床に視線を落とした。
反対に俺の視線が鋭くなるのは“あの夜”を思い出すからだ。恨んではないし、筋違いかもしれない。それでも転機になったのは否めず、カップを持つ手が強くなる。
「春冬くんは……なんで別れたと思う?」
いつの間にか千世おばさんの真っ直ぐな目が俺を捉えていた。
次第に洗濯機が回る音も届き、自分がまた呑み込まれていたことに気付く。替わるように視線を落とした。
「俺にはわかんないよ……確かにおじさんは家に居ることも少ないし、見た目怖いけど……でも、おばさんといる時は優しくて、おばさんも嬉しそうだった」
千風とおじさんの仲が悪いと断言できるように、おじさんとおばさんの仲も良かった。それは間近で見てきた父と母がよく知っているし、俺でもわかる。
けど、病気になる前のおばさんは有名歌劇団に所属していた。
しかも、ただの端役ではなく、舞台を華やかに飾るトップスター。俺も千風も何度も映像で観たし、爪の先まで芸術品かと思わせる踊りと歌、子供さえ魅了する顔付きに心が震えた。最初は本当におばさんなのかと疑ったが、舞台裏の映像を観れば要らない心配だった。
舞台に上がればふぅ、下りればちぃ。幼馴染(娘)がいたのだから。
だからこそ、今となっては演技だったのではと思う。
俺や母さん、父さんさえ騙されていたんじゃ……本当はおじさんのこと好きじゃなかったんじゃないかって。
「私といる時の忠興さんも……嬉しそうだった?」
優しい声が怖い。嘘か真実かわからない。
それでも頷き返すと視線を上げた。口元に笑みがあるのが見えると僅かに身体が震えるが、柔らかな唇が綻ぶと共に目を瞠った。
「そっかあ……」
両手をそえる頬は赤く、はにかんでいる。
まるで出逢いを、夫婦への道を思い出しているかのような表情は演技じゃない。照れくさくも本当に喜んでいるのがわかる。夫婦だった二人の記憶が過ぎる。
「な、なんで別れちゃったの!?」
「はい?」
瞬きするおばさんとは反対に俺の顔が真っ赤になるのは、親の出逢いやノロケを聞かされたように、こっちが恥ずかしくなったからだ。絶対砂糖山より甘い。いや、感覚的にだけど。
何より、想いが変わってないことに我慢ならなかった。
「おじさんのこと今でも好きじゃん! おじさんもきっとそう……かはわかんないけど、大事にしてたよ!? 好きなのになんで」
「好きだからよ」
遮った声は透き通っていながらも抑制があった。
呆ける俺に、少しだけ顔を伏せたおばさんは物悲し気に、独り言のように呟く。
「好きだから……別れたの」
「……え?」
なおのこと理解できない。何かを返したい。でも喉元で突っ掛かるばかりか口を結んでしまい、ただ淡々とおばさんは続けた。
「私が病気だと知っても、あの人は私を選んでくれた。別れ話をした時も必要ない、傍にいてくれって言ってくれて……嬉しかった」
「じゃあ……」
「でも……私が耐えられなかった」
優しかった声に重みが掛かる。
洗濯機が回っているはずなのに静まり返っているように感じるのは、苦渋の色を浮かべた彼女の言葉を待っているからだろう。しばらくして、震える唇が動いた。
「選んでくれたからこそ、あの人を支えてあげたい……なのに、身体がついてこないの。すぐ寝込んで心配かけて……それを許してくれるあの人の優しさが重い枷のように思えて……もうダメだった」
「別居にしても……?」
悪足掻きのような問いに返ってきたのは苦笑。
手遅れ……というわけではないだろうが、それだけ追い詰められていたのが伝わる。夫婦仲は見抜けても、肝心の気持ちは理解できていなかった。いつも大らかに見送っていた姿が薄れていくのと同時に、千風の言葉が思い出される。
『仕事だからって、ずっと私なんかの護衛で自由な時間取られちゃって……これからは好きにしていいですからね』
もしかして俺も追い詰めていた?
一緒にいることが千風にとってはプレッシャーになっていた?
自分の護衛(せい)で、俺に他の時間ができないって……苦しんでいた?
「……なんだよそれ」
カップを持つ手が震えると、ミルクと砂糖で増幅したコーヒーが溢れる。手に零れても既に冷えきっていて熱くはない。熱いのは身体だ。
「好きで一緒にいるんだから……迷惑でもなんでも頼ってよ……離れないでよ」
吐き捨てるのは苛立ちと後悔と願い。
“あの夜”は捨てられたのだと思った。好きなのに離れていくのは逃げたい理由があるのだと思っていた。でも、それが俺のせい、俺のためだというなら、今でも追い続けている俺は彼女を苦しめている……とんだ大馬鹿もんだ。
「……私も頼ってもらいたかったの。大丈夫じゃなくて、ありがとうって……言ってもらいたかった」
はっと気付くように、噛みしめていた唇が解ける。
電気も点いていない室内は半分以上が影に覆われ、サイズの違う影が二つ伸びていた。
「傾いた天秤を戻したかった。でも、人の想いは物と違って決して均一にはならないわ……等しくありたいと思っても必ず差が出て、埋めようとして壊れる。私のようにね」
目先に立つ彼女に合わせ、大きな影に小さな影が重なると、痩せ細った両手が俺の両手を包んだ。
「だから離れたわ……これ以上迷惑をかけるより、画面越しに応援しようって」
軽やかな声に顔を上げれば、前髪から覗く先に笑みが見える。蕾を開く花が。
「大丈夫。あの人と確かな愛でできた娘がいるだけで私は幸せよ」
穏やかな微笑に、嘘など欠片も見えなかった。
視線を落とせば自分の手に零れたコーヒーが彼女の手に伝っていたが、目に入るのは左手の薬指で光る物。それが答えだと、観念するように息をついた。
「女って切り替えるの早いよね……女々しい俺とは大違い」
「はい、忠興さんと春樹さんと同じね。この間も言い包めてやったって冬花ちゃんが威張ってたわ」
「この間……って、え、母さんと会ったの?」
「月一で様子を見にきてくれるの。殆どは世間話と忠興さんのこと……あ、春冬くん達のセックスも聞いたわ」
「母さーーーーんっっ!!!」
千風が話したのかと思えば、まさかの親情報。
ママ友の恐ろしさに身震いしていると洗濯機が終わる音を告げ、カップを取られる代わりにタオルを乗せられる。さっさと手を拭いた俺は逃げるように背を向けた。
「春冬くんは千風ちゃんのこと……好き?」
「好き、今すぐ結婚したい」
何を当たり前なと振り向けば、くすくす笑うおばさんは背を向ける。よくわからないまま洗濯機の蓋を開けると、流し台で音が聞こえた。
「じゃあ……千風ちゃんのこと、お願いね」
「え?」
シーツを取り出す手が止まる。
洗い終えたカップを置いた彼女もまた振り向くが、穏やかに微笑んでいるだけで、俺は口を開いた──が、背後の引き戸が開き、咄嗟に振り向く。
出てきたのは髪が跳ね、ぼんやりとした目を瞬かせる千風(ちぃ)。
満面笑顔で俺は両手を広げた。
「ちぃー結婚ぶっ!!!」
反射のように、みぞおちを食らった。
罪悪感通り越して殺意しかないのではと思うが、膝を着いた俺ははにかみ、ちぃは手を握ったり開いたりする。
「当たった……夢だと思ったのに」
「うんうん、夢だからもっとなじっはあぁぁ~!」
足で胸を小突かれ、仰向けに転がると、爪先が現実かを確かめるようにお腹や下腹部を踏む。啼く俺に構わず、ちぃは眠そうに母親を見た。
「なんで春ちゃんが居るんですか?」
「私が帰ってきた時には居たけど……一緒に帰ってきたんじゃないの?」
おばさんのようにちぃも小首を傾げるが、唸りながら手洗いへと向かった。戸が閉まるのを確認した俺は寝転がったままおばさんを見上げる。
「そういえば、おばさんが帰ってくる前にスーツの男が二人きたよ……一人は関西弁だった」
語尾を強めると視線も鋭くなる。
だが、考え込んでいたおばさんはぱっと明るい顔で両手を叩いた。
「ああ、途中で会ったから大丈夫……あら? でも、留守だったって……」
「……ドアスコープで見ただけだよ」
視線を逸らすとポケットを握りしめる。なんでか喉の奥がムカムカするが、払うように訊ねた。
「話し変わるけど、おばさんもおじさんのこと今でも好き……だよね?」
からかい半分だったのに、簡単に真っ赤になった顔に俺も熱くなる。
それから互いに動けなくなったが、しばらくして恥ずかしそうに指を口元に立てた笑みが返ってきた。虚をつかれたように目を丸くした俺もまた苦笑交じりに指を口元に立てる。内緒だと。
すると、手洗い場のドアが大きな音を立てながら開いた。
おばさんと二人見れば、とびっきりのS顔ちぃが……あ。
「もしかして思い出しあああぁぁっっ!!!」
瞬時に俺の元へやってきたちぃは足で股を踏み、雑巾のように玄関まで押し進める。とんでもない興奮行動に呻きは止まらない。
「ああ゛あ゛ぁぁ……最高にSいぃっ!」
「はひ、絶交記念に認めましょう」
「ああぁそれはヤだあ……ていうか、悪いのは冬ぅぅ」
「家を知っていたこと、私の服が変わってること、シーツが洗濯されてるのは?」
「ふぅが教えてくれて、ちぃが自分で着替えて、美味しいモノを食べる夢でも視て濡らああぁっ!」
(アナタ、よくそんなホイホイと嘘が言えますね)
「お前のせいだあああぁぁ~~っ!」
いつの間にか起きていた相方にツッコミながら玄関で堪えるが、大事なモノを容赦なく踏み続けられ、イきそうになる。が、寸前で足は退かされ、ちぃは腕を組んだ。
「美味しい物? 変な味がするアメリカンドッグなら食べた気が……」
「アメリカンドッグ!? 俺のってアメリカンドッグなの!!?」
「え、チュロスじゃダメ?」
割り込んできた声に振り向けば、細長いチュロスを用意した千世おばさんが座って瞬きしていた。その手にはなぜか小山になった砂糖が乗ったスプーン。真下には粗茶。
ちぃと二人、猛ダッシュしたが、やはり間に合わない悲鳴と呑気な笑い声が響いた。
決して途切れることのない想いと、絶えることのない笑顔。
そんな今日を生き写したかのように微笑む母の遺影を持った千風が荒澤家に戻ってきたのは翌年の夏だった────。