03話*「好きだよ」
「本当なんですかっ!?」
夜も十一時を回った週末。
突然の大声に、テレビを観ていた俺は振り向く。立ち尽くしているように見える父さんの顔は風呂上がりなのに真っ青で、慌てた様子で電話を続けた。
(相手、千風のお父様ですよね?)
「うん……明日から出張って言ってたけど……今夜にでもなったのかな」
(それは真っ青になりますね)
「嫌だよねー」
そんなことを冬と脳内で話していると、父さんがこっちを見た。何か言いたそう……いや、言い難そうに。
さすがにおかしいとテレビを消すと眼鏡も掛けず立ち上がる。電話を終えた父さんは椅子にもたれ掛かるように座り、手で顔を覆った。
「どうしたの? おじさん、なんて?」
傍までやってきた俺を一瞥すると、俯いたまま大きな息を吐いた。
尋常じゃない空気に嫌な動悸が鳴るが、堪えるように、待つように見つめる。しばらくして顔を上げた父さんは視線をさ迷わせると、躊躇うように口を開いた。
「奥様と…………離婚したって」
「…………は?」
唐突な話に耳を疑う。
だが『離婚?』と復唱する冬に心臓が跳ね、慌てて聞き返した。
「な、なんで? 二人、仲良いよね?」
ちぃのお父さんは仕事一筋。まさにお堅い政治家だ。
家でも冷静で口数が少ないせいか、どこか怖いイメージがある。でも、一回りも年下で病気持ちのおばさんをいつも気遣っていた。テレビで見るのとはまったく違う優しい顔で、おばさんも頬を赤めていたのを覚えている。離婚なんてありえない。
だが、長年仕えてきた父さんが困惑している様子に嘘ともいえなかった。俺も顔を青褪めていると、脳内で考え込んでいた冬が呟く。
(離婚“した”、ですか?)
「“する”じゃなくて……確定?」
まだ冷静な相方の疑問を口に出すと、父さんは一息吐いた。
「詳しいことは教えてもらえなかったんだけど……さっき判を押したらしい」
「押したの!? おばさん病気なのに!!?」
「僕だって言ったさ!」
互いに苛立ちをぶつけるが、父さんの方が大きかった。
滅多に怒鳴らないせいか後退ると『ごめん』と、小さな謝罪が耳に届いた。瞼を覆った父さんの手や肩は震えている。誰よりも二人は円満だと信じて疑わなかったのが痛いほど伝わってきた。
「……明日、出て行くそうだ」
「…………は?」
繰り返すようなやり取りだが、今度は冬もわからないといった様子で父さんを見つめている。そんな視線に気付いたのか、覆っていた手が瞼から口元に移った。
「奥様……既に別の家を借りているらしくて、明日引っ越し屋が来るそうだ……」
「えぇっ!?」
篭った声でもはっきり聞こえた話に、さすがの俺も冬も呆気に取られる。
病気ながら一人旅を趣味にするほど活発なのは知っていたが、不動産屋めぐりは予想外だ。そもそも父さん達が出張の日に出て行くって……用意周到すぎる。止める術が見つからない。
ちぃじゃないけど、そんなにおじさんが嫌い……ちぃ?
「ねえ……ちぃは? 千風はどうなるの?」
俺達以上に問題の中枢にいるのは娘である千風。
暮らしを考えると親権はおじさんが良いだろうが、ちぃはおじさんを良く思っていない。それに病弱であるおばさんを一人には出来ないはずだ。
考えれば考えるほど動悸が増す。
ゆっくりと俺を見上げた父さんは静かに口を開いた。
「奥様と一緒に……明日、出て行くって」
「っ!?」
目の前が真っ暗になった。
冬の姿も見えなくなるほど黒塗りに潰され、身体がよろける。倒れるのをなんとか堪え、手で口元を押さえるが、動悸が痛いほど鳴り続ける。警告のように。
「ただいまー。ああー、疲れたー」
玄関が開く音と一緒に母さんの声が響く。
立ち上がった父さんは俺を横切るとリビングのドアを開けた。冷たい風にピクリと身体が動く。
「ちょうど良かった。冬花(ふゆか)さん、帰って早々悪いんだ……春冬っ!?」
「何? 何?」
気付けばリビングどころか両親も横切り、裸足のまま家を飛び出していた。
寒さも砂利も関係なく、行き慣れた道をたどると裏門に手をつける。だが、時間が時間なだけに鍵が掛かっていた。息を荒げながら辺りを見渡した目に映るのは幹が太い大きな木。
(春っ、やめなさい! 春っ!!)
思考が伝わっている冬が慌てて止めるが、助走をつけて飛ぶ。
木の表面に片足をつけると枝を掴み、振り子の要領で瓦へと飛び移った。間を置くことなく飛び降りると、風に揺れる竹林を進む。
ざわざわと音を鳴らす葉よりも心臓がうるさい。
なぜ走っているのか。行ってどうするのか。疑問や不安や戸惑いはこの短い間だけでも数え切れないほどある。ただ今は会いたい。会って本当のことを……彼女の口から聞かないと信じることが出来ない。
「ちぃ……ちぃっ……」
息を切らしながら、うわごとのように呼ぶ名前。自分しか呼ばない名前。いつしか特別になった名前。繰り返せば繰り返すほど心地良くなっていたはずなのに、今は苦しくなる。
それでも唾を飲み込み瞼を閉じると叫んだ。
「ちいぃぃーーーーっっ!!!」
「なんですかー?」
返ってきた声に、よろけながら立ち止まる。
気付けば切妻屋根の家があり、中庭まで足を運んでいた。汗を拭いながら呼吸を整えるが、縁側にある襖を開けた影に気付く。ピンクのワンピースパジャマに身を包んだ少し不機嫌な千風(ちぃ)がいた。
「こんな時間に何してるですか? 無断侵入「ちぃっ!」
呆れ声を遮り駆け寄ると抱きしめる。
さすがに予想外だったのか『はひっ!?』と悲鳴が上がるが、確かにあるぬくもりに腕を強くした。土台で高低差があるせいか、胸元に顔を埋める俺の頭をちぃは叩く。
「ちょっと春ちゃん、いったいな…………裸足できたんですか?」
月明かりだけではわからなかったのだろう。驚くような声と共に叩く手が止まる。
吹き荒れる風に今になって寒さや足の痛みを覚えるが、震える口は別を呟いた。
「嫌……だよ……ちぃ……いかないで……」
身体よりも何よりも痛い現実に涙が落ちる。
* * *
異常に映ったのか、時間を考えてか、自室に入れてもらえることが出来た。
八畳ほどの和室にはベッドが置かれ、机や棚も洋風。窓辺にはペットボトルで作ったミニ菜園がある。中学の頃までは毎日のように遊びにきていた部屋はさっきまで暖房が入っていたのか暖かい。何よりちぃの匂いに、座布団に座るとほっとした。
けれど、数個置かれたダンボールに全身がざわつく。
そこに引き戸が開かれ、タオルを二枚持ってきたちぃが入ってきた。
「さあ、春ちゃん。熱~いタオルと、冷た~いタオル、どっちがいいですか?」
「おばさんに……ついて行くの?」
静かな問いに、笑顔だったちぃの表情が曇る。
しばらくして一息吐くと俺の傍で膝を折り、擦り傷だらけの足を冷たいタオルで拭きはじめた。いつもなら喜ぶ行為も今は何も感じられず、ちぃだけを見下ろす。
「春樹さんに……聞いたんですか?」
「うん……おじさんとおばさんが離婚して……明日出て行くって……ちぃ、知ってたの?」
「いいえ。私も数時間前にはじめて聞きました」
「はじめてって……離婚理由は?」
「知らないです」
なんでもないように言われ、俺の方が戸惑う。
だが、片足を拭き終え、反対の足を拭きはじめるちぃは淡々と続けた。
「そりゃあビックリしましたけど、どんな理由でも親の問題に口出し出来ないじゃないですか。どれだけ子供が一緒にいたいと思っても両親は離れたいわけで……我侭言って苦しませたくないですよ」
「ちぃにとっては……別れた方が良かったんぶっ!」
ほかほかタオルを顔面にぶつけられる。
熱さよりも痛みが勝っていると、膝に落ちたタオルを拾ったちぃは再び顔にあてた。今度は優しく拭いてくれるが、その頬はどこか膨らんでいる。
「さすがにそこまでは思ってなかったですよ……まあ、家を出たら少しは気持ちも変わるかもしれま……」
言葉が切れたのは俺が腕を握ったからだ。
またタオルが落ちると、目を丸くしたちぃと視線が重なる。嫌な音を鳴らしはじめる動悸を他所に訊ねた。
「本当に……出て行くの? 止めても行く?」
揺れる目で見つめる俺に、瞼を閉じたちぃは腕を下ろす。そのままゆっくりと口を動かした。
「…………はい、この家を出ます」
「っ!」
たった一言と頷きに、心のどこかにあった可能性までもが真っ黒に染まった。顔を伏せると、解けた手を両手で包まれる。いつの間にか小さくなってしまった暖かな手に。
「だいぶん良くなったといっても心配ですし、どこか抜けてる母なので……お金は現役で働いていた頃の貯金とか……あ、学費はお父さんが出してくれるらしくて中退しなくていいって。でも私は……」
心配かけまいと明るく振舞う声が酷く惨めな気持ちへとさせる。
頭の中で必死に冬が何か言っている気がするが、その声も姿も徐々に深い闇の中へと消えていく。なのにちぃの声だけは聞こえる。これからのことを、いなくなった後のことを話す声が。
「だから春ちゃんも心配しないでください。仕事だからって、ずっと私なんかの護衛で自由な時間取られちゃって……これからは好きにしていいですからね。あ、でも、私以外に踏んでくださいとか頼んじゃダメですよ。本当に警察沙汰ですからね」
やめてよちぃ。それ以上いわないで。俺は迷惑なんて思ってないから。
俺は嫌なんだ……離れたくないんだ。だって、だって……俺は。
「俺は……ちぃが好きだよ……」
呟きに、ピタリと話すのをやめたちぃが目を丸くする。
その隙に反対の腕を伸ばすと、引き寄せるように背中を押し、抱きしめた。鼻をくすぐる甘美な匂いが全身を包み、艶やかな黒髪から覗く耳に口付ける。そして囁いた。
「ちぃ……好き」
「ひゃっ!」
突然のことに驚いたのか、聞いたことのない悲鳴を上げたちぃは身体を丸める。俺を見上げる顔は真っ赤だ。
「もうっ、急になんですか! 遊ばないで「遊んでない」
重ねた言葉が強かったせいか、ビクリとちぃの肩が跳ねた。
徐々に見開かれる目に反対の手で顎を持ち上げると顔を近付ける。鼻先がくっついたように、唇もあと僅かでくっつくところで口を開いた。
「遊んでない……俺は本気でちぃが好きなんだ……幼馴染でも護衛対象でもない……千風って女の子が」
「春ちゃ……んっ!」
呼んでくれた声を唇で塞ぐ。
今まで抱きしめることはあっても決して触れることはなかった唇。はじめてのキス。匂いとは違う心地良さと幸福感。嫌な気持ちも動悸も一瞬で吹き飛ばし、高揚感だけを与える。
離した唇には白い糸が繋がり、舌先でちぃの糸と唇を舐めた。小さな悲鳴と共に開いた口に、また口付けると舌を挿し込む。
「んっ、ふ……んんっ!」
「ん……ちぃ……もっと、ちょうだい」
頭と腰を固定すると、何度も何度も口付ける。
幻想を破るように、俺という現実を植えつけるように何度も何度も……それでも足りない。
「春……ひゃっ!」
力を失くしたように寄り掛かるちぃを抱き上げるとベッドへ運ぶ。
それがよくないことだと感じたのか、慌てて俺の背中や頬を叩くが、すぐ柔らかな布団の上に寝転がされた。ギシリと音を鳴らしたベッドから起き上がろうとしても、跨った俺に塞がれる。
布団に埋まった彼女は、自身を覆う影をどこか恐れるように見上げた。
「春ちゃ……ダメです……よ」
「うん……もう、ダメだよ……ちぃ」
震える彼女の頬を、首を、肩を、腕を撫で、手を握る。
その手を口元に持ってくると親指から順に舐め、手の甲に口付けた。びくびくと身体を揺らし、息を荒げる顔は真っ青なはずなのに、頬は可愛い朱色に染まっている。
それが嬉しくて笑うと、顔を近付けた。
「好きにしていいって言うなら……俺に千風をちょうだい……全部」
絶望に近い眼差しに映る彼女はもう幼馴染じゃない────愛しくて、食べつくしたい女。