

02話*「すみません」
最初はちぃだった。
小学五年生、課外活動でビデオカメラを回す先生に今まで見たことないほど顔つきが険しくなった。その時は機嫌が悪いのかと気にしなかったが、度々同じ顔になることが増え、声をかけてもそっけない。
それがカメラ類を向けられた時にしか見せないことに気付いた小学六年生。ついに言ってしまった。
『カメラに映った時のちぃ、いつもとちがう』
その一言が本人さえ知らなかった“もう一人”を気付かせた。不甲斐ない自分にも。
それを責め続けた中学三年のある日。
俺にも“もう一人”の人格が芽生えた──。
* * *
「ハルハルって、ホント千風嬢のこと好きだよなー」
正午前。選択授業であるパソコン室は先生が席を外しているのもあって賑やかなお喋りが飛び交っている。反対にちぃがいない俺は無心だったが、不意の呟きにキーボードを叩いていた手を止めた。
眼鏡のブリッジを上げると隣の男を見る。
「いまさら何……雅(まさ)」
淡々と訊ねる俺に構わず、毛先が跳ねた茶髪に両耳ピアス。上着を着ていない中学からの親友、安心院(あじむ) 雅臣(まさおみ)は頬杖ついたままパソコンを見つめている。
「だって、四六時中一緒ってのは男的に美味しいシチュだけど、好きじゃなきゃ十年はキツイぜ。他の女と遊びたくならね?」
「ならないね……雅と違って」
美少女ゲームのサイトを見ていた雅と目が合う。
しばらくしてブラウザを閉じた彼は背伸びをし、肩の力を抜いたように両腕と頭を落とした。数秒後、真剣な眼差しを向けられる。
「俺は二次元しか愛せないからいいんだよ」
「俺もちぃしか愛せないからいいんだよ」
(どっちもどっちですよ)
キメ顔だったのに“脳内”からツッコミが入る。
必死に違うと文句を送っていると、雅はまた頬杖をついた。
「ハルハルの愛(ラブ)って幻想(バーチャル)? それとも現実(リアル)?」
「どういう意味?」
オタクならではの感性か、変な比喩に片眉を上げると、指を一本立てられた。
「傍にいるだけで幸せっていう居心地良さに酔った幻想か」
一瞬ピクリと肩が揺れる。同じように目を細めている雅の指を注視すると、傍に見える口元がゆっくりと動いた。
「腕に捕らえて全身全霊を捧げる現実か」
「現実」
「お待たせなり~……あ」
ニ本目の指と同時に即答すると先生が入ってくる。
次いで終わりのチャイムが鳴り、号令に押されるように立ち上がった。目を丸くしたままの雅に、挨拶を終えた俺は筆記類を片しながら付け足す。
「現実の愛で間違いない。けど……幻想を見ることにしてる」
瞼を閉じると、教室を出て行く足音も声も聞こえない、無の世界が広がった。
十年も一緒にいて嫌だと思ったことはない。
仕事を抜きにしても彼女といるのは楽しいし嬉しい。これからもずっと護っていきたい……それが幼馴染という枠を超えた特別な感情だと気付くのに時間はかからなかった。
そして、気付いたが故に欲が増す。
傍にいるだけでいい──でも、捕まえたい。
居心地がいい──俺だけのものにしたい。
募れば募るほど根を深くし、無だった世界を黒塗りに潰す。
そんな考えを阻止するかのように、腕を組んだ“もう一人”が立ち塞がった。不機嫌そうな“相方”に一息吐くと目を開く。
既に室内は俺達だけになり、時計の音が木霊する。
徐々に廊下から聞こえる声に振り向くと、何かを言いたそうにしている親友に苦笑を零した。
「今はまだ……このままでいいよ。人生長いし、ゆっくり……ね」
「…………だな」
大きな息を吐いた雅は背を向ける。
続くように廊下へ出ると、昼食に足を運ぶ生徒で賑わっていた。不安定なせいか、別授業だった彼女の元へ早歩きで向かっていると、携帯を取り出した雅も慣れた様子でついてくる。
「しっかし問題は千風嬢だよなー。絶対お前に『愛』なんてないぜ」
「痛いこと言うなよ……この間も二人乗り自転車を警察に怒られて『俺(これ)はサドルですっ!』って言い切られたんだから」
「……まず、人類に昇格するところからか」
「あの後お尻で踏まれたのは最高だったなあ……」
「もう専用椅子で生きろよ……お、噂をすれば」
携帯から顔を上げた雅の呟きに夢心地から覚める。
噴水もある庭園がガラス越しに見える吹き抜けのカフェテリアには食事をする人、並んでいる人、談笑している人、多くの生徒達で溢れ返っていた。そんな人混みの中でも一人を捉える。大好きな彼女を。
「ち(違いますね)
割り込んで来た“声”に緩んでいた頬も足も止まる。
捉えた目に映るのは列から離れた場所で腕を組んでいる千風。その表情は険しく、苛立っているのがわかる。“ちぃ”ではなく“ふぅ”だとも。
眼鏡を外し辺りを見渡す俺に、雅も眉を顰めた。
「なんだ、今日もか? お前並にしつこいな」
「一言余計……今朝だけで充分だってんのに……いた」
広くなった視界に映った標的に筆記具を雅に渡すと踵を返す。と、背に声がかかる。
「“カズカズ”で行けよ。今の“ハルハル”じゃマジで潰しちまうから」
「……誰のせいですか」
忠告に立ち止まると、大きな息を吐きながら振り向く。
強張っていた雅臣の顔が苦笑に変わった。
「悪い悪い……で、カズカズの愛は幻想と現実、どっち?」
それは“僕”と“春”を別扱いし、試している問い。
同じ扱いでも構わないのにと思う反面、考えが違うなら同じとはいえないかもしれないと苦笑した。
「さあ? 僕は生まれたばかりなので判断出来ません。ただ……今したいことは春と同じです」
再び背を向けると口笛が聞こえたが、すぐ世界が止まったように静まり返った。深呼吸すると、ゆっくりとした足取りで周囲に気を配りながら行き交う生徒を掻い潜る。
(冬……いた。二人)
“声”の先を見れば、物陰からコソコソ何かを窺っている生徒が二人。その手には僕達の幼馴染を不機嫌にさせている物があった。
「僕達……」
(冬……?)
ふと漏らした呟きに足が止まると、首を傾げる春が浮かぶ。
咄嗟に手で口元を覆ってしまうのは、自然と出ていた言葉がおかしかったせいだろう。口元を押さえたまま振り向くと、不機嫌そうな千風が映る。
中学三年の時に“春”から生まれた“僕”はそれ以前の記憶を持たない。
千風とはじめて逢った日も、“ちぃ”から“ふぅ”が生まれた日も知らない。それでも春が抱いている気持ちや考えは共有しているからわかる。どれだけ彼女を大切にし、想いを募らせ、危ない根を張っているか。
最初は抑制のために生まれたのだと思っていた。
けれど、千風と共にいる時間が長くなればなるほど春のように何かが芽生えはじめる。それが同じ感情かはわからないが、今の気持ちに変わりはない。矛盾していても、やはり僕は“春冬”だ。
思い知るように手を外すと再び歩きだす。
口元に弧を描いているのが窓ガラスに映るが、構わず身を屈めている男子生徒二人の背後に立った。影で気付いたのか、振り向いた二人は笑顔の僕に顔を真っ青にする。
「こんにちは」
「「う、うわあああぁぁーーーーっっ!!!」」
化け物でも見たような顔をされるのは“よくない”顔見知りだからだろう。
悲鳴を上げながら逃げる一人の腕を引っ張ると足を払って床に転がす。そして、もう一人の進路を片足で塞いだ。ダンっと壁を踏む大きな音に、周りも驚いたように目を瞠ると静まり返る。
震えている男達など無視し、床に転がった不快な物を掴むと微笑んだ。
「すみません──捻り潰しますね」
握りしめたカメラにヒビが入る。
* * *
「また報道部さんですか?」
「うん……捻り潰しといたっああぁ!」
庭園の一角にある芝生に寝転がり、下りてくる鳩を追い払う“俺”の背中に座るちぃはアイスを頬張りながらお尻を浮かしては落とす。嫌な連中を追い払ったお礼=最高のご褒美に俺は満面笑顔。
反対に通りすがりの生徒達は戸惑っているが、向かいのベンチに座る雅は携帯ゲームしながら口を挟んだ。
「マスコミ同様、親父さんのネタを探(さぐ)ってんだろうなー」
「迷惑です……」
大好物のアイスを食べていても不機嫌なのは父子(おやこ)仲が良くないからだろう。政治家、しかも代表という立場にいる親父さんだけならまだしも、娘であるちぃもマスコミの的になっている。子供は関係ないだろうに今朝もそのテの連中が電車に紛れ込み、話を聞こうとしていた。
さすがにプロが相手なのもあって俺は誰が関係者なのかわからないが、皮肉にもちぃにはバレバレで追い払うことが出来る。
その理由を知る雅は感心するように頷いた。
「しかし、揃って二重人格なのも面白いけど、替わり方がまた極端だよな」
「ホントですよ。なんで春ちゃんは条件ないんですか?」
「わかんなああああぁ……あれ?」
頬を引っ張ってくれていた手が突然ピタリと止まる。
スルーつきのニ段構えかとさらに喜ぶが、俺を見下ろすのは不愉快そうに口を“へ”の字にした“ふぅ”。瞬きする俺を無視して立ち上がったふぅは、携帯を向けたまま親指を立てる雅を睨んだ。
「安心(あんしん)、止めろっ!」
「こっわ! もう一人の千風嬢こっわ!! あと、たいがい名前覚えて!!!」
「うっさい!」
「はいはい、ふぅ、抑えてください」
溜め息をつきながら起き上がった“僕”は、雅臣に食ってかかるふぅを背後から抱きしめる。ギャーギャーと騒いでいるのがまだふぅなのは、雅臣が持つ携帯が動画のままだからだろう。
“ちぃ”から“ふぅ”に替わる条件。それは監視機器。
携帯カメラや動画はもちろん、街中にある監視カメラどころか盗聴器でも替わる難儀な体質で、何度も盗撮犯を指摘し感謝状を貰うほど。反対に僕達“春”と“冬”は集中すればいつでも替わることが出来る。
脳内で話せること、片方が寝ていたり意識が途切れたら替われること、思考すらバレバレなのは共通。なのに交替条件だけが違う二組の違いはわからない。マスコミ連中のせいで千風が二重人格になったこと以外……いや、それも僕達の推測だが、ヤツらの商売道具で替わるならほぼ黒だろう。
護れなかったが故に生まれた“ふぅ”と“冬”だ。
「……なんですか、春ちゃん」
動画が切られたのか、暴れるのを止めた“ちぃ”が“俺”を見上げる。
いつでも替われるといっても俺はちぃが、冬はふぅを気に入っているため、彼女達が替わると同時に俺達も替わる。だが、本来なら緩む顔は強張り、抱きしめる腕が強くなる。
それが変だったのか、食べ終わったアイス棒で頬を突かれた。
「どうしました? 報道部さんにイジメられました?」
「ううん……ちぃ以上のSはいないから大丈夫」
「私はフツーです」
笑顔で額を叩かれると俺も笑みに変わる。
そのまま肩に顔を埋めると柔らかな髪と頬同士があたり、ちぃだけの匂いに包まれた。不安も後悔も掻き消すような暖かい匂い。それが堪らなく心地良くて嬉しくて、想いが呟きとなって零れた。
「ずっと一緒だよ……ちぃ」
「嫌です」
ドキッパリの返答に、雅も周囲も凍りつく。
なんとか笑顔のまま顔を上げた俺と冬以上に、ちぃは太陽のような満面笑顔を浮かべた。
「卒業したら監視カメラもない農業溢れる田舎に就職するので、春ちゃんとはバイバイです!」
「いや、どこまでもついて「こなくていいですよ。春ちゃん跡取りですし」
「ハルハル……ファイト」
同情交じりの応援をした雅や他がそそくさと退散する。
完全に抜け殻と化した俺に構わず、ちぃはアイスの次に大好きな農業ライフを語りはじめた。歓喜ではない、本物の悲鳴を上げたのははじめてだったかもしれない。
それでも長い人生はこれからはじまる。
これからゆっくりと気持ちを伝えればいい。
時間はいくらでもある。
ずっと一緒にいられる────はずだったんだ。