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複雑なスノーフレーク

01話*「護衛対象」

複雑なスノーフレーク

 傍にいることだけを望んだ。
 それ以上は望んではいけないと──まだ思っていた。


 頭の中で何かが聞こえる。怒っているような、呆れているような声。
 それが“彼女”だったらと頬が緩むと、ひときわ大きな声が脳内に響き渡った。

 


(春っ、たいがいに起きてくださいっ!)
「う……ぇ……」


 望んだものとは違う男の怒鳴り声に重い瞼を開く。
 徐々に、けたたましい目覚まし音が耳に届き、覚束ない手を伸ばすと叩いた。静まり返った室内にベッドから身体を起こすと数秒の間を置いて背伸びする。

「ん~……朝かあ」

 

 目を擦りながら立ち上がるとカーテンを開く。
 薄暗い外に構わずパジャマを脱ぎ、黒のYシャツに白のズボンと靴下。最後にネクタイを締め、鞄と上着を持って自室を後にした。階段を降りると、良い匂いをさせるリビングに顔を出す。

 

「おはよう……」

 

 明るい電気には程遠い挨拶だったが、幸いそれを注意する姿はない。代わりに、一八十はある長身の後ろ姿が振り向いた。フライパンとフライ返しを持ったまま。

「おはよう、春冬(はるかず)くん。ご飯とパンどっちにする?」
「パン……母さん、もう行ったの?」

 欠伸しながら訊ねると、前髪をアップにし、黒のスーツの上からエプロンをした父さんは目玉焼きを皿に移す。

 

「うん、社長さんは大変だね。今日も抜かりなく仕事しろってさ」
「仕事って……俺、まだ高校生なんだけど」
「護る誰かがいるなら立派に『U・B』の一員だよ。さ、早く顔を洗っておいで」
「はーい……」

 

 微笑む父さんに気のない返事をすると、鞄と上着をソファに置いてリビングを出る。
 手洗いを済ませると顔を洗い、肩に付くか付かないかの短い黒髪を梳くと、度の入っていない眼鏡を掛けた。

 

 俺の名前は牛島 春冬。私立高校に通う十六歳。
 家は『U(うしじま)・B(ボディーガード)』という民間警備会社。いわゆるSPを生業とし、母さんが社長を勤めている。俺も父さんもその一員だが、学生の本分は勉強というように俺はあまり関わってない……護るべき対象ならいるが。

 

「じゃあ、春冬くん。行こうか」

 

 皿を片付けていると、既に支度を終えていた父さんに慌てて上着を着る。
 家を出れば、秋も半ばを過ぎた外は白い息が見えるほど寒い。けれど、見上げれば澄みきった空と日の出に迎えられる。一日のはじまりを告げる空は結構好きだ。

 そんな感動も束の間。
 青のマウンテンバイクを手押しで歩いて五分。目的地に辿り着く。

 

 裏門を潜り、竹林を進んで見えてくるのは紺色の瓦が連なった切妻屋根の日本家屋。出窓格子にアプローチには犬槙や千両。立派な佇まいは未だ感嘆の息をつきたくなるが、護衛を使う家と思えば納得もする。もっとも仕事だけの間柄ではないが。

 

「あっ!」

 

 突然焦ったように駆け出した父さんの先にあるのは小さな畑。
 インゲンやオクラなどの野菜が植えられた菜園の傍には、カーディガンを羽織っただけの薄着の女性が屈み込んでいた。

 

「奥様、何をなされてるんですか!」
「あら、春樹(はるき)さん。見て見て、たくさん出来たの」
「なら早く収穫してください! 病気が悪化するでしょ!?」
「そう思ったんだけど、写真撮りたいなって……でもね、カメラ持ってくるの忘れちゃって」

 屈んだまま肩までの真っ直ぐな茶髪を揺らすのんびりな人に、父さんが頭を抱えているのがわかる。マウンテンバイクを置いた俺は自分の携帯を差し出した。

 

「おはよう、千世(ちせ)おばさん……ちぃは?」
「おはよう、春冬くん。千風(ちかぜ)ちゃんならまだ起きてないわよ……これ、どうやって使……あら?」

 機械音痴なのも忘れるほど寝ていた頭が覚めると大急ぎで玄関に入る。
 家政婦である柏木ばっちゃんに挨拶し、早歩きで廊下を進むと、目当ての部屋からパジャマ姿の女の子が出てきた。
 欠伸しながら一歩出ようとする彼女に、慌ててスライディングする。

 

「ちぃーーっ、おっはよーーう!!!」

 

 勢いよく磨かれた床を滑ると、ちょうど彼女の数歩先で止まる。むぎゅりと片足で腹を踏まれた。

 

「あっ……!」
「はひ……おはようございます」

 

 笑顔で唸った俺に構わず、眠そうに挨拶を返した彼女は洗面所に入る。
 数分後、出てくるとまた俺の腹を踏んでドアを閉めた。さらに十分後、同じ校章がついた赤のワンピースにスカーフの制服で出てくると、俺を踏んでからドアを閉める。

 ニコニコ笑顔の俺を眠そうに見下ろした。

「春ちゃん……踏まれるの好きですね」
「うんっ、大好きっ! Sちぃ、最っ高!!」
「私はフツーです」

 

 興奮している俺にニッコリ笑顔を見せた彼女は肩まである黒髪を揺らしながら背を向ける。起き上がった俺も後を追うと、窓から差し込む日差しが二人分の影を伸ばした。

 

 一五十ちょっとの彼女は同い歳の荒澤(あらさわ) 千風。
 政治家である父親の護衛兼秘書を父さんがしている縁もあって、三歳の頃から家族ぐるみの付き合いをしている。いわば幼馴染で、俺にとっては護衛対象。娘だからと狙う輩がいるせいだが、十年以上続けられるのも俺自身ちぃが大好きだからだ。

「うざったいです」

 

 朝食を終え、車の後部席に乗ったちぃは笑顔でドアを閉める。
 俺の身体は打ち震えるが、ショックからではない。最っ高に可愛い笑顔で罵ってくれたのが嬉しくてゾクゾクする歓喜の震え。はじめて逢った時、背負い投げを笑顔で決められた衝撃から目覚めたドM気質からくるものだ。ちぃ限定で。

(そうだったんですか……)
「あれ、知らなかった?」

 

 脳内に響いた“呆れ声”に視線を上げる。
 けれど、運転席に座った父さんが掛けるエンジン音に鞄をリュックのように背負うと、マウンテンバイクに跨った。

「いってらっしゃい」

 

 眼鏡を内ポケットに入れる俺に、ちぃの母である千世おばさんがおおらかに手を振る。その手に笑みを返すと、走り出す車を追うようにペダルを踏んだ。

 

 学校までは仕事へ向かう父さんの車で駅まで送ってもらい、電車に乗り替える。
 ただし俺は相棒のマウンテンバイク『ハヤテ号(ちぃ命名!)』で、先行する車を追いながら後方に怪しい車や人がいないかチェックするのが日課だ。平和な日本で早々危ないことはないが、これも仕事のひとつ。

 向かい風は日々冷たくなり、信号で停まると白い息で手を暖める。
 目の端には見慣れた風景、通勤途中の人、混みはじめる車。同じだけど服装や表情、微かに違う変化に気を尖らせる。と、車に乗るちぃと目が合い、笑顔のまま小さな唇が動いた。

 

『バーカ』

 

 あっ、最っ高……!

 


* * *

 


「春冬くん……お願いだから途中で気が緩むのやめて」
「え……俺、真面目にしてたよ」
「バックミラーにバッチリお花を背負ってるのが映ってたよ……はあ、遊ぶお嬢さんに言った方がいいのかな」

 

 ハヤテ号を駐輪所に停めた俺は、駅のロータリーで父さんの車と合流。
 開いた助手席の窓から運転席で唸る父さんを覗くが、目はアイスクリームの自販機を眺めているちぃを見ていた。耳に溜め息が届く。

「通勤中は特に危ないし……せめて反応しない“あっち”になれないかい?」

 

 不意の問いに、視線が父さんに移る。
 ちぃだけでなく俺自身も心配しているのがわかる表情に、屈めていた腰を上げると笑みを返した。

「出来ると思う……あとで試してみるよ」
「何事も慣れ、か……わかった。じゃあ、気を付けてね」
「うん、いってきます……ちぃー、行こーう」

 

 ハンドルを握った父さんに手を振ると、名残惜しそうに自販機から離れたちぃと駅に入る。ごった返す改札を通り、電車を待つこと数分。未だ頬が膨らんでいる彼女に苦笑した。

「拗ねるぐらいなら買えば良かったのに……好きなの我慢するのはよくないよ」
「今日は学校のフレーバーミントアイスにするって決めてるんです」
「何それ……じゃあ、見ても意味なっああぁ!」

 

 笑顔で腰を抓られ、歓喜を上げる。
 ちょうど停車した電車から溢れる人混みに声は掻き消されたが、気を取り直すように試すように“スイッチ”を入れると、人波に押されるように乗り込んだ。

 

 都心の通勤ラッシュは当然満員。
 ドアの近くに立つ彼女を隠すように立っても四方八方から押され、停車時は特に揺れる。咄嗟に腰を抱くと、乗り降りする音に混じって溜め息が聞こえた。

 

「朝から……最悪」

 

 さっきまでフツーだった口元が“へ”の字に変わる。
 それが発車しても治らず、くすりと笑った。

 

「このままでいましょうか?」
「……殴られたいわけ?」

 キッと睨み上げられると、ゾクゾクする。
 それは罵られたからじゃない。不機嫌な彼女をもっと苛めたくなるドS気質からくるもので、抱き寄せると髪に口付けた。脳内に『ずるい!』と叫ぶ“声”が響いたが、構わず見下ろした”僕”は口角を上げる。

 


「最高にイい顔してますよ、“ふぅ”」
「バカ“冬”」

 


 さらに不機嫌になった彼女、もう一人の千風こと、ふぅ。
 同じようにタメ口から敬語へと変わった春──否、もう一人の春冬こと、冬(僕)。

 幼馴染である僕らは、ちょっと複雑で面倒で愉しい二重人格────。

/ 本編 /

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