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花のフィールド

​26話*「人形」

 羽田空港から島根県出雲空港まで、一時間半。さらに兄が運転するレンタカーで走ること一時間半。中心街を抜けると田植えが終わった水田が広がり、半分開けた窓から川風が吹き通る。
 心地良さより気が重くなるのは上京から三年。一度も帰省していない実家が見えてきたからだ。

 山と水田に囲まれ、近所の家々とも距離がある瓦屋根の木造二階建て。
 先祖代々、米農家として成してきた佐々木家。トラクターや田植え機なども置いている敷地や築数は紗友里ちゃん家よりも上だが、簡単な補修しかしていないので傍から見れば古い家。

 

 友達に古臭いと言われた幼い私は両親の仕事が米農家と同じぐらい恥ずかしかった。綺麗な家やマンション、サラリーマンやお医者さんの家に生まれたかった。憧れた。
 でも、大人になるにつれて“外側”より“内側”が時代錯誤だと、牢獄だと思い知った。

 

「あら~、八作。よう帰ったがぁ」
「ただいま~。あんま連絡やれんでごめんな」
「そげに気にせんでええがぁ。さ、早く入って入って。零花は荷物が持って、片付けたらお茶が淹れんさい」
「はい……」

 

 出迎えた母は息子には喜ぶも、娘には笑顔さえない。
 戸惑う兄とは違い、慣れている私は二人分の荷物を運ぶ。当然、整理整頓された兄の部屋とは違い、三年前まで使っていた自室は半分物置と化していた。

 

 電気は点いても机どころか教科書もぬいぐるみも小物も、お気に入りの洋服も何ひとつ残っていない。唯一、空手で優勝した何枚もの賞状が壁に飾られていた。一度も観にきてくれなかったし、額縁にも入っていない画鋲で留めた賞状。たとえ埃を被っていても“私”が住んでいた証。
 ぎゅっと両手を握りしめると、荷物を置いて台所へ向かった。

 

 食器棚や急須の位置は変わっておらず、用意したお茶を居間がある和室へ運ぶ。談笑している兄と母の邪魔をしないようテーブルにお茶を置くと、隣室にある仏壇に手を合わせた。
 それから廊下や玄関の掃除をする。この家で私が手を止めることは許されない。

 

 男がお金を稼ぎ、女が家を守る。
 稼いでくれる男を労うために女は家を整え支えるのだと、埃ひとつ残してはいけないと教えこまれた。それが異常だと気付くには時間が掛かったし、理解している今も草むしりをしてしまう。

 

 何かしていないと怒られる。ダメな子だと落胆される。もう諦めているのに、わかっているのに身体が動いてしまう。止まってはいけな──。

 

「っ!?」

 

 瞬間、振動が伝わり、慌てて立ち上がる。
 ポケットからバイブを鳴らす携帯を取り出すと表示名に胸を撫で下ろし、スワイプした。

 

「も、もしもし……」
『Hello、家性婦ちゃん。元気ー?』

 

 か弱い声を掻き消す陽気な声と呼び名に頬が緩み、携帯を耳に宛てる。

 

「元気ですよ……シロウさんは?」
『Ya、気持ちは元気。でも、家性婦ちゃんと四日シてない身体は憂鬱(ブルー)』
「はいはい、気持ちが元気なら大丈夫。というか、外でそういうこと言わないでください」

 

 説教すると、不貞腐れた声と一緒に人波が聞こえた。テレビ電話でもないし、地方ロケに行っているのを考えるに外から掛けているのだろう。

 

「それで、どうしたんです? まだお仕事中でしょ?」
『Break time(休憩時間)だよ。今日から兄ズいなくて、家性婦ちゃん一人って聞いたからさ。あーあ、知ってたら休み取ってイチャイチャしたのに』

 

 周囲に人がいようが構わず話す彼に、いつもなら注意するだろうが今は安心する。凍結していた身体と思考が解け、人間(ヒト)に戻れる気がした。

 

『……レイカ?』
「っ、はい!」

 

 名前で呼ばれ、声が上擦る。両手で携帯を握る私など知るはずもないシロウさんは怪訝そうに話す。

 

『どうしたの? なんか……元気ないように聞こえるけど』
「っそ、そんなことないですよ! そ、そういえばシロウさんはどこに行ってるんですか?」

 

 別の意味で動悸が激しくなり捲し立てると、思い出したように彼は声を弾ませた。

 

『Oh、それがね。なんとオレ、家「ばんじまして~」
「っ! す、すみません。掛け直しますっ!!」
『え、ちょ、レイっ』

 

 突然の声に慌てて電話を切る。
 動悸は激しさを増し、胸も痛むが、振り払うように携帯をポケットに入れると駆け出した。

 

 来客は帰省を聞いた近所の人たち。
 私が一緒なのは知らず驚かれたが『まあ、零花ちゃんも大きなって』『元気(まめなか)ね?』と喜んでくれた。ありがたい反面、前に出すぎてはいけないと早々にその場を後にすると、また足元から凍る音が聞こえた。

 

 近所の人たちが帰ると兄の運転で父が入院している病院を訪れる。年季が入った建物が怖いと子供の頃は泣いたものだが、覚えのある待合室や通路に今はほっとした。

 

「零花」

 

 足を止めていると小声で呼ばれる。振り向くと兄が手招きしていた。聞き慣れた呼び方でも手招きでもない。でも、穏やかな表情に足が動く。

 

 早く見舞いを終えて東京へ、時任家へ帰ろう。兄弟はまだ帰ってこないけど実家より断然良いと大部屋に入室すると、病院なのも忘れ、同室の人たちと高笑いしている父が振り向いた。

 

「おう、八作!」
「お父、病院やがぁ静かにせんが」
「おお、佐々木んとこの倅と嬢ちゃんか。なんが、嬢ちゃんも立派なって」
「ど、どうも……」

 

 同室の年配男性(おじさん)に背中どころか尻を叩かれる。苦笑しながら胸とお尻を隠しながら窓際にある父のベッドへ向かう。
 パイプ椅子を広げる私に一瞥はくれるも、すぐ兄を見上げた。

 

「わざわざすまんな。俺(わー)はなんも悪い気せんのに、医者が入院がせってうるさいに」
「アンタ。そげは言うても、無理はいかんが」

 

 文句を言う父に呆れる母はパイプ椅子に腰を下ろす。私も窓を背に立つと、兄が前に出た。

 

「そんで、どげした? 零花も呼んだかてことは大事な話がや?」

 

 珍しく語尾を強めた兄に驚くが、母は苦笑しながら手を横に振った。

 

「そげな堅い話やないが。八作はもう一年が大学に行って、卒業したら彼女と結婚。家業が継いでくれんだろぉ?」
「? そげかよ」
「やけんが、零花も結婚がせんがね」
「「はぁっ?」」

 

 おかしな話に兄とハモると互いを見合う。
 兄が家業を継ぐのも、彼女さんと結婚するのも居候していた頃に聞いていた。兄と同じ農業大に通う彼女さんも米農家とわかっていて嫁ぐとも。だからこそ安心したし、実家と縁を切れると思った。なのになぜ私、しかも結婚なのか理解できないのに父は隣ベッドの男性の肩を抱く。

 

「同じ米が作っとるこいつと意気投合がしてな。息子が独身が聞いて、零花はどげが思って」
「いやぁ、こげんが可愛い子を嫁にもらえると知ったら息子も家内も大喜びだが」
「そげそげ。せっかくの御縁を断るなんが恥やに」
「ちょちょちょちょ待ちぃが!」

 

 笑顔の両親に同室の人たちも『おめでとさん!』と拍手や口笛を吹く。さすがに止める兄のように、両手を握りしめた私も我慢ならなかった。

 

「わけがわからない(わやくそだがね)! なんで私(あだん)も結婚がせないけんが!! ハチ兄は許して私(あだん)は大学を辞めれ言うんがぁ!!?」

 

 勢い任せで響かせた怒声に、何事かと看護師さんがやってくる。だが室内は既に静まり返り、私は顔を伏せたまま身体を震わせていた。そんな苦しい心情すら汲んでくれない母の溜め息が落ちる。

 

「そげが言うても零花はなりたい職業(もん)ないやに、同じ米農家が嫁いだ方が将来も安泰だが。そげに女は勉学より家庭に入るんが一番の幸せやに」

 

 深い溜め息に喉の奥と胸が痛む。
 震えも増し、目尻にも熱いものが溜まるのがわかると無言で部屋を飛び出した。看護師さんや兄の声よりもうるさい心臓を押さえながら、涙を落としながら、場所も忘れて駆ける。

 

 気付けば病院も飛び出し、隣接する公園にやってきた。
 木々に囲まれ、簡易遊具と錆びれたバスケットゴールがあるが、夕方なのもあって人の姿はない。それを良いことに草むらへ躊躇いなく倒れ込むと抑えていた声を張り上げた。

 

「っ……あああ゛あ゛ぁぁ!!!」

 

 それは悲鳴と号哭。
 自由だと思っていたのに実際は何も持っていない虚無の人形だった。反論すればいい。縁を切ればいい。ただそれだけのことなのに、染み付き洗脳された身体が『見捨ててはいけない』『村八分にされる』と警鐘を鳴らす。

 

「そんっな……知らんが……私(あだん)は勝手に……して……っ」

 

 必死に言い聞かせるも、痩せ細っていて白髪も増えた父。ふくやかだった母もやつれていたのを思い出す。短いと思っていた三年で自分が成長した分、親も老いる。
 兄が継いでくれるといっても今年一年は大学に集中しなければならず、収穫期の帰省はできない。父の入院で東京ドーム六個分ほどになる田んぼの整備をする人手も足りない。

 

「あど一年? ……っひく、一年我慢したら……いいが?」

 

 一年なら大学休学して、また通える? その間に結婚を断ったら縁も切れる?
 否。さっきは勢いで否定できたが、改まって両親の前に出た時の私は脆い。怖い。足がすくむ。きっと声に詰まって何も言えない。結婚を了承してしまう。でも、そしたら──。

 

「お嬢ちゃん、どうしたんだい?」
「っ!」

 

 突然の声に上体を起こす。
 涙を袖口と拭くと、霞む目に痩せ型の中年男性が映る。が、もう五月の下旬だというのにロングコートを着ていた。コートの前を握る両手は震え、ムダ毛が見える足と靴。よく知る卑しい目と不気味な笑顔に鳥肌が立つと身構えた。

 

「……なんか用ですか?」
「いや~、キミ可愛いね……はあ……暇ならおじさんと」
「暇じゃないので失礼します」

 

 鼻息を荒くしながら腰をくねらせる男性に嫌な動悸は増し、早く退散しようと立ち上がる。と、勢いよくコートの前を開いた。目に飛び込んできたのは、浅黒く萎れた胸の先端、痩せていると思ったのに弛んだお腹。そして聳え立った男のモノ。いわゆる──全裸だ。

 

「ちっ……!」
「どうだいどうだい? 私の」
「小(ち)っさいがああぁっ!!!」
「へぶほっ!!!」

 興奮していた男性の股間を反射で蹴り上げる。
 足に嫌な感触があったが、今日はズボンなのでマシだ。予想外の反撃に露出狂の真っ赤だった顔が真っ青に変わり、呻きながら千鳥足で逃げる。怒りが勝ってる私は腕を掴んだ。

 

「露出したいんなら、もう少し身体が鍛えて清潔さ出さんがに! そもそもイケメンやないし、こげな粗○ンにも興味ないが!! 生まれ変わってこいが変態っ!!!」
「全否定っご!!!」

 

 泣き叫びながら露出狂の足を足で払い、懐に潜ると、綺麗な背負い投げを決める。地面に背中を打つ大きな音が響き、露出狂は大の字で目を回した。
 聳え立っていたはずのモノは情けないぐらい垂れ、私は啜り泣きながら携帯を取り出す。

 

「……あ、もしもし警察ですか? あの、露出狂に遭って……つい投げ飛ばしてしまって気絶したんやが……はい。だけん、チ○コ引っこ抜いても……え、そげは止めてあげて? そげか……はい、場所は」

 

 またアンタはと呆れる母が浮かぶが、泣き寝入りはしたくない。
 長年遭ってきたからこそ思うし、怪我しない程度に証拠つけたり現行犯で捕まえろと言われた。通話を切った携帯に箱根山と満開のツツジ写真を送ってくれた人に。

 

「三弥さん、自撮りしないのかな……あ、慶二さんも仙台に着いたんだ。ふふっ、はじめさん脱ぎたいって言われても……て、シロウさんからの着信すごっ!」

 

 次々と送られるメッセージや写真に笑みが零れ、涙が頬を伝う。
 身の毛がよだった露出狂とは違い、兄弟の裸は見慣れたし好きだ。それは性格も接し方も身体も全部──でも。

 


「家性婦……辞めなきゃ……」

 


 比重が兄弟よりも縛り続ける実家に傾く。
 抜け出せない自分の弱さに嘆きながら、近付くパトカーの音と共に脳裏を流れる一年間の記憶に泣き崩れた。掲示板で見つけたメモ、予想外の関門、散らかった家、個性的な兄弟。それ以上の快楽と笑顔すべてが霞んで消えた。

 

 その先に視えるのは家性婦を辞め、時任家から出て行く自分の背中────。

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