カモん!
36話*「幸せな家庭」
*途中「***」で海雲視点に替わり「***」で戻ります
手の平が頬を叩く音が大きく響き渡る──が。
「何やってんだ、みきっ!!!」
声を張り上げたのは海雲さん。
今日は怒らせてばかりだと胸が痛くなる。
そう、淑女さんが振り下ろした手はちーパパさんではなく、前を遮った私の頬を叩いた。正確に言うと、ちーパパさんを庇って叩かれた。
背後にいるちーパパさん達が仰天の眼差しを向けるが、私は叩かれた頬が痛んでも、毛先の滴が落ちても気にしない。ただ動揺している淑女さんを見つめた。
「……感情だけで手をあげないでください……それも自分の旦那さんに……」
「あ……貴女がなんで……割り込む必要などな「それでもっ!」
私の声が今までで一番大きかったせいか、淑女さんの肩が跳ねる。顔を伏せたまま私は続けた。
「関係なくても……それでも……夫婦で……親子でケンカしているのを……黙って見ていられるわけありません!」
「こっ、これはウチの問題です! 赤の他人の貴女に止められる権利はありません!!」
「赤の他人じゃありません……楓仁くんと楓ちゃんは私の『友達』です! そして大地さんと千秋さんは友達の大事なご両親です!!」
「……みきさん」
そもそもケンカを見ていて気持ちが良いはずないし、友達の二人が辛い顔をして止めたがっていた。身体が動いた私だったけど、止めれるならなんだっていい……それに。
「大地さんは千秋さんのこと『俺にはもったいない』って言ってました……大地さんは千秋さんのこと嫌いじゃないですよね?」
「……おうっ、最近会ってなくて……あれだが……ちゃんと好き……だぜ」
照れながらも告白したちーパパさんに、淑女さんはその場にへたり込む。眉を顰めてはいるが涙を浮かべる姿に、私もゆっくりと続けた。
「本当に大地さんが嫌いなんですか? このまま別れても平気なんですか? 楓仁くんや楓ちゃんが何を言っても聞きませんか?」
「婚約者……ちゃん」
「出た言葉は二度と戻りはしません……暴力なんてなおさら悪化させるだけです。それでも大地さんとの縁を切りたいほど嫌いなのであれば、もう何も言いませんし、私も……出しゃばったことを詫びます」
“嫌い”なんて言葉の綾だったかもしれないし、私の屁理屈かもしれない。でも私は前に出たことも言った言葉も後悔していない。
部屋には重たい空気が流れ、みんな沈黙している。
頭が揺れそうになるが、仁くんと涙を浮かべたかえでんがゆっくりと私の前に、ご両親の前に出た。
「……俺と楓は……二人が離れんの……ヤだよ」
「っ……!」
「お母さんが……苦しむのが私達のせいであるなら……ちゃんと話し合います。今まで何も言い返せなかったけど……今……なら……だから別れるとか……そんなこと……」
かえでんは既に涙が溢れているが、賢明に言葉を発している。
そんな二人の背中をちーパパさんが撫でると、淑女さんの前で膝を折り、優しく彼女の頭を撫でた。
「千秋……家に帰ったら四人で話そう。俺は別れる気はねーけど、ともかく海人んとこと嬢ちゃんと……楽しく年を越そうじゃねーか」
「……あな……たっ……」
涙腺が緩んだのか、そのまま淑女さんはちーパパーさんに、かえでんは仁くんに泣き付く。始終黙っていたかな様も優しい笑みで淑女さんの肩を叩き、私も安堵の息をついた。
気付けば隣に海雲さんがいたが、まだ怒った表情で見つめている。私は笑顔を作ろうとするも、急に目の前が歪んだ。
ぐにゃぐにゃと視界は揺れ、激しい頭痛と吐き気に動悸が速くなる。
あ、これはマズい……久し振りに……そう手で口元を押さえ屈むと、海雲さんが心配そうに顔を覗かせた──瞬間。
「きゃあああぁぁっ!!!」
かえでんの悲鳴と共に私は床に……届く前に、海雲さんの腕に倒れ込んだ。
薄く目を開くと、顔を青褪めた淑女さんとかな様、ダンディさんを呼ぶ仁くんの声、電話に駆け寄るちーパパさんが見える。そして──。
「おいっ、みき!? しっかりしろ! おいっ!」
ああ、この感じ懐かしいな……ケガをした時と同じように海雲さんが必死に呼んでいる。応えなきゃ。
「だい……じょ……すぐ……なお……る……ら」
ちゃんと聞こえたかな。
だってもう虚ろな目で、大好きな海雲さんの姿がぼやけている。でも海雲さんならと、安堵するように微笑んだ私は暗闇の世界へと堕ちていった。
* * *
みきと出逢って一ヶ月ちょっと。
いつも百面相のように表情が変わる彼女だが、俺はまだ『怒』を見たことがなかった。しかし今日、はじめて怒る彼女を見た時、その必死さに違和感があった──。
『ああ、それは完全にタガが外れましたね』
「……どういうことだ?」
電話の相手はみきの妹まき。
突然倒れたみきに取り乱しながら、何か持病でもあるのかと、以前病院で名刺交換していた妹に連絡を取った。プライベート用で掛けてしまったが、隣に寺置もいたらしく、一回で繋がり事情を説明。
御袋達には妹と話をしてから病院行くか話し合うことにしたため、みきは今、俺のベッドで眠っている。だが妹は淡々と話を続けた。
『大丈夫ですよ。発作みたいなもので、明日にはケロッと元気になってますから』
「発作……?」
『姉さん、沈黙とケンカがダメなんですよ』
「……は?」
さっきから意味がわからない。発作ってことは病気みたいなものじゃないのか?
しかも何度もあったような口調で妹は続ける。
『特に夫婦ゲンカがダメですね。両親が離婚する前によくしてたんで』
その言葉に先ほどの峰鳶家の事が浮かぶ。
妹が言うには、両親が頻繁にケンカをしていたのを見てから男女の怒鳴り合いに敏感に反応するようになったらしい。カップル同士は特に問題ないが、子連れ夫婦になると激しい頭痛に吐き気と眩暈を起こし、何度か倒れたこともあるという。数時間すれば治るそうだが。
「“沈黙”はなんだ……?」
『ケンカ中は何も喋らずただ見てるだけだったんで、口を挟んでニ人と話し合っていたら別れなかったんじゃないか……とかなんか後悔してるんですよ。私からすれば意味ないと思いますけどね』
シビアな妹だな……けど、違和感にも今までのみきの行動にも納得がいった。
沈黙忍耐が十分だったり、必死に間に入っていたのは引き離したくなかったからだ。他人の家庭事情にお構いなく入って、ボケ連発で毒気抜くのも……さすがにそこまで計算は出来ていないだろうが、本能的に動いていたのかもしれない。
黙っていると『藤色のお兄さん』と、久々に聞く名前が電話越しに届いた。
『みきがこの世でもっとも嫌いで好きなもの、教えてあげましょうか?』
「……なんだ?」
僅かに速まる動悸を抑える俺に、大きな息を吐いた妹は言った。
『幸せな家庭』
* * *
いつの頃からだったろうか。
お父さんとお母さんが毎日……ううん、お父さんが帰って来ない日もあったから毎日じゃない。それでも日に日に大声で叫んでいるのが怖くて怖くて、まきと手を繋いだまま夜を過ごした。
子供が何も言えることじゃないって、明日になればお父さんもお母さんも“なかよし”に戻ってるって、そう願っていた──。
「……それを後悔していたのか?」
「……海……雲……さん……」
まだ世界が歪む中で瞼を開ける。
ベッドライトの明かりだけの部屋で、海雲さんが私の顔を覗き込んでいた。その表情は切なくもどこか怒っているようにも見える。でも頭を優しく撫でてくれた。
「……みきは……家庭を持つのが……怖いか…?」
その言葉はゆっくりだが、静かな部屋ではハッキリと聞こえた。
胸に大きくのし掛かったものに我慢はできず、目には涙が溢れる。それでも声を振り絞るように言った。
「…………はいっ……」
気付いてほしくなかった。
けど、何かが弾けたように心が軽くなる────。