カモん!
12話*「落とそう」
店内に沈黙が漂う。
ただ藤色のお兄さんは私の背後、わにはばのおじさまをとても怖いで顔で睨んでいる。
慌ててお秘書さんに『ヘルプ!』の顔を向けるが、ニッコリ笑顔で両手にバッテンを作り、濡れた机をおしぼりで拭きはじめた。見捨てられたっ!
顔を青褪めていると立ち上がったお兄さんが、わにはばのおじさまから私を引き剥がす。スッポリと優しい腕の中に包まれた。
ああ……藤色のお兄さんの匂いだ。あったかい。
気付けば腕にしがみつき、涙をポロポロ流していた。藤色のお兄さんは安堵した表情をしたが、また険しい表情でわにはばのおじさまを睨んだ。
「なんでえ……粗相したのは嬢ちゃんじゃねえか。その責任は取らねーとなあ?」
「彼女の判断は正しい。二日酔いで明日の仕事に支障を来たすわけにはいかないでしょう」
「そんなヘマを俺がするわけねえだろ~。てめえより長く生きて仕事してんだ」
「嘘つけ! 酔っては翌日半休使ってるだろ!!」
後ろから渡辺のおじさまが声を上げるが、わにはばのおじさまは何もないように続ける。
「何いってんだあ~? それは下の連中がだらしね~からだろ。この俺が一日の半分も居ることに感謝してもらいてえとこだな。藤色も俺が『合意』しなきゃ手は組めなかったんだぜ~」
沈黙する藤色のお兄さんを見ながら今度は私が憤りを覚える。
ああ、バケツをひっくり返したい! むしろ川に落としたい!! 落とそうお秘書さん!!!
と、お秘書さんを見ると電話中だった。なぜ!?
「……確かに会社としては御社と是にも手を組みたく数日お伺いし『合意』して頂けたことには御礼申し上げます」
藤色のお兄さんはいつもと変わらない淡々とした口調でお辞儀している。反対にわにはばのおじさまは口角を上げていて、私は喉の奥がムカムカしてきた。
「……しかし」
「ん?」
淡々としていたお兄さんの口調に怒気が含まれると頭が上がる。わにはばのおじさまを睨みながら彼は続けた。
「アンタという男と一緒に仕事をする気はない」
「なにい?」
「他の役員は素晴らしいのに、アンタ一人居るだけで崩れているようだ。しかも話を聞くに周りの会社からも不評」
そう言って藤色のお兄さんが周りを見回すと、渡辺のおじさまをはじめ、他のお客さんも頷いた。いつの間に情報交換をしたのか驚いている間にも話は続く。
「周りから信頼されていないヤツと手を組む気はない。悪いが相互の社長と話をさせていただく。寺置」
「藤色社長とは繋がっております」
予想していたかのように携帯を渡すお秘書さんに開いた口が塞がらない。それはわにはばのおじさまも同じのようで、戸惑いの声を上げた。
「おい勝手に何を……!」
「ちょっと常務、ヤバイんじゃない?!」
スッカリ存在を忘れつつあった女性と二人慌てだすが、電話をする藤色のお兄さんは淡々と説明している。藤色社長ってことはお父さんですよねと考えていると、お兄さんが電話を切った。その数分後、わにはばのおじさまの携帯が鳴り、大きな声が漏れる。
『鰐巾くんどういうことだ! 先ほどEarth社から取引を考えさせてほしいと連絡があったぞ!! 私は是にもと頼んでいただろ!!!』
「しゃ、社長……!」
『最近社外でも君の態度への苦情が多くある。明日朝一で私のところへきたまへ! いいな!!』
ダダ漏れな声でプッツンと電話が切れると店内が静かになる。藤色のお兄さんが口を開いた。
「成績はよろしいようなので、礼儀と性格を平社員からやり直されてください」
冷静な声に、わにはばのおじさまは意気消沈といった感じで机に俯けになって頭を抱えた。
藤色のお兄さんの表情は変わらないが、どこか清々しいように見える。それだけで気が抜けたのか、ペタリと地面に座り込んだ私に、藤色のお兄さんも屈んだ。
「巻き込んで悪かったな……大丈夫か?」
さっきの憤怒や清々した表情とは一転、心配顔だ。
その百面相が面白くてくすくす笑うと、藤色のお兄さんはキョトンとした様子。その顔にまた笑いながら頭を下げる。
「はい、助けてくれてありがとうございました。藤色のお兄さんこそビールジョッキ割ってましたけど、手は大丈夫ですか?」
「ああ、そう言えばそんなことし……弁償しないとな」
「そういう意味ではなくてですね~」
“そう言えば”って忘れるぐらい怒ってたのかと思うと『私だから?』と訊ねたくなった。でも、まきたんの『勘違い』に詰まってしまう。
『私だから』なんて自意識過剰だ。
藤色のお兄さんは優しいから見過ごせなかっただけだと勝手に解釈していると、心配そうに顔を覗き込まれた。
「どうした……気分でも悪いのか?」
「いえ、そういうわけでは……!」
「このっ、ガキがっっ!!!」
顔を上げた端で、わにはばのおじさまがお冷のグラスを藤色のお兄さん目掛けて投げるのがスローモーションのように見えた。私は無我夢中で飛び起き、藤色のお兄さんの頭を庇うように抱きつく。
直後、大きな衝撃音とガラスが割れる音――そして。
「きゃああああ、みきちゃん!」
奥さんの悲鳴。でもそれが徐々に遠くなる。
意識が朦朧としながら目を開くと、藤色のお兄さんの顔が見えた。少し水は掛かってるけど大丈夫そう。そこで頭が痛いことに気付き手で触ると真っ赤だった。
顔を少し傾けると、お客さん達がわにはばのおじさまを取り押さえているのが見える。取り押さえ現場ってこんなんなんだと悠長に考えていると大きに両腕に包まれた。けれど、聞こえてくる声は焦り。
「おいっ! しっかりしろ!! 寺置っ、車持ってこい!!!」
「はいっ!」
お秘書さんがバタバタと駆け出し『カっモ~ン♪』のベルが聞こえた。
私は手を動かす。だってお秘書さん、お酒飲んでるから運転出来ない……しちゃダメー……と必死に手を伸ばす。でも、冷たい手に捕まってしまった。
ぎゅっと握りしめる手の人は悲痛な表情で私を見つめる藤色のお兄さん。その口が小さく、けれどハッキリとした声が届いた。
「……みき」
その言葉だけで全身が熱くなり、涙が零れる。
嬉しくて嬉しくて、私が今まで感じていたのは紛れもない“好き”の感情だった。でもそれは家族でも友達でもない純粋な――“愛している”の“好き”。
ゆっくりと手を握り返した私は、聞こえるかわからない声を発した。
「海……雲……さん」
そう微笑んだのを最後に、意識が途切れた――――。