77話*「フローライト」
揺れる鈴の音が記憶の中の声と重なる。
『何を泣いて──』
『いつか作って──』
『貴女に七輝の虹と──』
風で広がる金色の髪は透き通って見えるほど綺麗で、影が掛かると琥珀色。いっそう映える純白の服に、優しい青水晶の瞳と笑み。覚えてる、この男性(ひと)は──。
「ふんきゃっ、白薔薇のお兄さん!」
記憶と重なったことで笑顔になると、お兄さんも嬉しそうに笑みを返す。ゆっくりと床に下ろされたわたしは手を握ったまま振り向いた。
「お義兄ちゃーん、ルアさーん! この人です!! 白薔薇のプリザーブドくれた人!!!」
四年前、まだお義兄ちゃんとカルガモの親子をしていた頃に遊んでくれて、プリザーブドの作り方を教えてくれた人。そして、家のリビングにある白薔薇をくれた人。
あの時は髪も短かったし、木陰で遊んでいたから金色じゃなくて琥珀色で覚えてしまった。だから何度もルアさんと重なっていたんだ。
やっと解けた謎と再会が嬉しくてぴょこぴょこ跳ねる。
でも、笑顔のお兄さんとは違い、お義兄ちゃんとルアさん。それどころか他のみなさんの様子がおかしいことに気付く。
キラさん、ケルビーさん、ジュリさんは唖然とし、セルジュくんとナナさん、王妃様に限っては震えながら泣いてる。唯一、ナナさんに支えられて座るムーさんは笑みを浮かべてるが、さすがのわたしも首を傾げた。
「コー……ランディア……っ!」
「え?」
憎々しい声に振り向く。
声の主は背中と手足が凍り、仰向けのまま動くことができないでいるノーマさん。頭上でピタリと鬼の手が止まっているのに、射抜くほど鋭い深緑の目はわたし達に向けられている。
金色の髪を揺らしながらゆっくりと振り向いたお兄さんも彼を捉えると、笑みを浮かべた。
「お久し振りです、ノーリマッツさん」
「「あ……あっ、兄上ーーーーっっ!!!」」
少しだけ低くなったお兄さんに次いで、二つの泣き叫ぶ声が響く。
振り向けば、魔物の液体に滑りながらも泣きながら駆けてくるセルジュくん。そんな弟をナナさんも涙を落としながら見ていたが、ムーさんに背中を押され、戸惑いながらも頷いた。
同じように走り出した彼女に、わたしを見たお兄さんは手を離す。身を屈めた彼は両手を広げ、走ってくる姉弟を嬉しそうに抱き留めた。飛び立ったフクロウさんの白い羽根が三人に降り注ぐ。
「あ、兄上……あぐっ、うっ、どこ……いってたんだよおぉ」
「うん、セルジュ……心配かけてごめんなさい」
「兄上っ……あっ、兄上……っ」
「ナナ……母上を護ってくれてありがとうございます」
しゃくり上げる二人の背中を撫でながら、同じ金色の髪に口付けを落としたお兄さんはキツネさんを見上げる。そこにはキラさんに支えられ、両手で口元を押さえたまま涙を流す王妃様。彼女にも笑みを向けたお兄さんは、そっとやってきたルアさんに目を移す。
どこか苦い顔をしている彼に、お兄さんは微笑んだ。
「おはようございます、ルア義兄さん」
「……おはよう、ラン」
柔らかな声に毒気でも抜かれたように、ルアさんも苦笑を漏らす。
射し込む光に彼の髪は金色に輝き、顔を上げたナナさんとセルジュくんも合わせると四人はとても似ていた。顔を伏せた王妃様の髪色と、優しく力強い瞳を持っていた王様に。
聞かなくてもわかる再会に目尻に熱いものが込み上げてくる。
それはお義兄ちゃん達も同じなのか、みんなどこかほっとしたように笑みを浮かべていた。でも、一人だけ違う気配の人がいる。
立ち上がったお兄さんが振り向くように、わたし達も壇上を、ノーマさんを見た。
「お前っ……コーランディア……いつから……いや、どうやって封印を解いた」
眉を吊り上げ、歯軋りしている彼の背からは憎悪のようなものを感じる。
後退りしてしまうと、お兄さんの優しい手に背中を支えられ、目が合わさった。
「すべては何かの律に招かれたモモさんのおかげです」
「わたし?」
「ええ、覚えてらっしゃいませんか?」
涼やかな声で見下ろすお兄さんにわたしは首を傾げる。と、どこかに行っていたフクロウさんが、足に袋をぶら下げて戻ってきた。受け取ったお兄さんは膝を折ると、一足の靴をわたしに見せる。
アンクルストラップが付いた、ピンクゴールドのヒールを。
「持ち主(お姫様)はモモさんですよね?」
「ふんきゃっ!?」
それは誕生式典の日。
王様に会うためドレスアップしてもらったのに靴擦れを起こし、うっかり置いてきてしまった靴。元はナナさんの物になるが、つい白薔薇も添えられた靴を受け取ってしまった。でも手に取った薔薇は造花。
靴、造花、白……気付いたようにお兄さんを見ると、物悲しい微笑を返された。
「僕は二年間……造花で埋め尽くされたあの部屋にいました」
「ええっ!?」
衝撃の話に全員が目を見開き、わたしは金魚のように口をパクパクさせる。構わずお兄さんは続けた。
「本城五十三階……衣裳部屋しかないあそこは式典以外で使われることはありません。さらに五十階より上は認められた者しか入れない。そこに目を付けたノーリマッツさんは特殊な封印を施した一室に僕を閉じ込めました。目を覚まさないよう……『魔封香』を置いて」
細められた目に、ノーマさんは凍りついていても身体を震わせる。反対にわたしはお兄さんを見上げた。
靴、というより彼から僅かに『魔封香』の香りがする。
魔力を奪う力があるという臭いをはじめて嗅いだのは造花の薔薇が敷き詰められ、白い天蓋ベッドがあった部屋。もし漆器の香炉に焚かれたお線香が『魔封香』だったのなら……あのベッドにお兄さんがいたのなら。
「ごめんなさいっ!」
突然頭を下げたわたしに、お兄さんは目を丸くする。
ルアさんも同じ顔をしていると双子に見えてくるが、わたしはまた頭を下げた。
「わ、わたしがあの時に気付いてれば……お兄さんを苦しませることは……」
お線香を倒しただけで気が動転してしまい、ベッドまで行けなかった。少しでも近付いていればお兄さんに気付いて……助けられたはず。二年も暗くて命に関わる臭いがある場所から救えたかもしれない。
目尻から涙が零れてくると、袋と一緒に靴を置くのが見える。
すると両手に頬を包まれ、誘われるように顔を上げた先には優しい笑みがあった。
「謝ることはありません。むしろモモさんが香を倒し、扉を開けて行ってくれたことで彼に気付かれず目覚めることができました……ありがとうございます」
「お兄さん……」
罪悪感を解く笑みにポロポロと落ちる雫が増える。
それを拭う指先がくすぐったくて目を閉じると、不意に柔らかい何かが瞼と唇に当たった。
「んきゃ?」
指ではないと目を開けるが、お兄さんは変わらず微笑んでいた。
でも、ルアさんと、やってきたお義兄ちゃんは顔を青褪め、わなわなと身を震わせている。小さな口笛を吹いたキラさん以外も唖然とし、わたしは首を傾げた。
「すべては“異世界の輝石”である貴女のおかげ……そして出会ってしまった僕がいけなかった」
構わず靴を入れ直したお兄さんは、袋をまたフクロウさんに預ける。
飛び立つ鳥のように彼も立ち上がるが、さっきまでの笑みとは一変、苦渋の色を浮かべた。
「いえ……遅かれ早かれこうなる運命にあったかもしれない……そうでしょう? 母上」
両手を握りしめたお兄さんは顰めた顔で王妃様を見上げる。
彼女もまた先ほどまでの喜びとは打って変わり、身体を震わせながら息子を見下ろしていた。それは誕生式典で見せた“怯え”に似ている。
「ラン……貴方……」
「……今は何も言いません。ただ、母上がなされようとしたことが原罪(はじまり)とも「違うっ!!!」
大きく遮る声に誰もが振り向く。
黒い炎が火柱を上げる壇上では自身を縛っていた氷を溶かしたノーマさんが片膝をつき、息を荒げながら憤怒の形相で睨んでいた。
「すべての原罪(はじまり)はあいつが……あの男が……」
「だからと言って貴殿が代行するのは筋違い……ただ己の欲望に堕ちた愚者な行いだとまだわからないのですか?」
ノーマさんに目を移したお兄さんの瞳も声も恐ろしく冷たい。でも知ってる。見たことある。この感じは……ルアさんが怒った時と同じだ。
辺りの温度が徐々に下がるのを感じる。
身震いする身体を抱きしめるわたしのようにノーマさんも声を詰まらせ、近付いてくる彼を凝視した。柄頭から流れる赤い紐に繋がれた鈴の音が響く。
「ニ年だけでも、これほど自責の念に駆られることはありません……何より、ただ燃える『薔薇庭園』を見ていることしかできなかった……悲しませることはしないと……ロギスタン夫妻に誓っておきながら」
「え?」
押し殺したような声にわたしとお義兄ちゃんは目を瞠る。
立ち止まり、握りしめていた手を解いたお兄さんは心臓辺りに手を置くと、見据えた目をノーマさんに向けた。
「これ以上の愚行を止め、投降してください。僕としても手荒な真似は得意ではありませんし、戦いも好みません」
透き通った声は落ち着いているのに力があった。
それこそ壇上、銀の玉座に居れば平伏してしまいそうなほど。でも、立ち上がったノーマさんは違った。
「止められないことを知っておきながら……情けを訊ねる方が愚かだとは思わないのか……?」
お兄さんのとは違い、憎悪さえ含んだ声もまた力がある。
長くその座に就いてきた力は今、宰相としてではなく敵として右手を掲げた。命に従うように動きを止めていた黒い鬼が起き上がり、床から数百の魔物が姿を現す。火柱も強くなる下で、ノーマさんの口元は弧を描いた。
「私の望みは国を沈めること。それ以外は──ない」
「……とても残念です。でも……良かった」
ケタケタと魔物が嘲笑う中、瞼を閉じ一息ついたお兄さんは胸にあった手を柄頭に乗せた。鈴の音を鳴らしながらゆっくりと抜かれる剣は先端に向かうほど刀身は狭まり、鋭い先を持つエストック。
複雑な曲線を描いた鍔の真ん中に埋め込まれているのは綺麗な青の宝石。彼と同じ瞳の色。でも、口元とは違い、お兄さんの目は笑っていない。
「どうやら僕の心もそう寛大ではないようです。僕自身のことはまだしも、母と妹弟を欺いたこと、義兄さんに罪を被せたこと……そして」
静かに振り向いたお兄さんは母、妹弟、ルアさん。さらに奥とわたしを順に見ると壇上へと向き直し、切っ先をノーマさんに向けた。
「大切な親友と姫君(プランセッス)を傷つけたことを許すわけにはいかない……これ以上、貴殿の好きには──させない」
力がこもった声に、お兄さんの足元で白い線が巨大な円を描く。
光に目が眩(くら)んでいるとルアさんに、セルジュくんもナナさんに、ムーさんはケルビーさんに抱えられ、お義兄ちゃんもジュリさんも一斉に跳んだ。
キツネさんも穴から顔を引っ込め、浮遊感に瞼を閉じると静かな声が耳に届く。
「虹霓 七輝の名の下(もと) 氷解溶けし薔薇(ロッサ)よ 咲け──解放(リベルタ)」
澄みきった声に、円の中央で白い薔薇が描かれる。
光と共に冷気が放出され、抱きしめるルアさんの腕が強くなると再び瞼を閉じた。しばらくして光が消えたのがわかるが、瞼の裏がまだチカチカしていて目を開けることができない。が、氷点下のような寒さに開いてしまった。そして目の前の光景に驚く。
床は風で浮き上がるわたしとルアさんを映し、天井には氷柱。
壁も魔物もすべてが銀色へと姿を変えた──氷の世界が広がっていた。
吐く息は白く、耳も熱くなるほどの寒さは南の『福音の塔』地下室と同じ。
突然の銀世界に辺りを見渡していると、抱き上げてくれているルアさんがポツリと呟いた。
「やっぱ……綺麗だな」
感嘆の声と彼が見つめる先に、わたしは目を瞠る。
数十メートルもの高さまで突き上がったいくつもの氷は水晶の形を取り、一番高い中央。凍った足場などもろともせず佇むのは白の背広に黒のネクタイ。白のウェストコートの上には同じく白の燕尾服だが、袖口などは金色の刺繍が施され、剣を持つ手には白い手袋。
金色の髪と一緒に左肩に留められた白いマントが靡けば、竜と薔薇が現れる。
そんな彼の頭上にはさっきまでいた一匹。
でも、その体は七色ではなく、透明で綺麗なクリスタル色。
「参りましょう、イエロ」
『キュウアアアアーーーーー!!!』
優しい声にルアさんの解放精と同じ声が上がると、閉じていた両翼を広げる。
省エネではない、本物の──竜だ。
歯を食い縛るノーマさんよりも高みから見下ろすお兄さんは、竜と同じ青水晶の瞳と共に、ゆっくりと切っ先を向けた。
「フルオライト国第一王子コーランディア・フローライト・フルオライトの名において、貴殿を──咲き散らします」
涼やかに名乗った名のひとつに、わたしはルアさんを見上げた────。