71話*「焼きもち」
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熱度を上げ、空へと昇る太陽。
静寂が包むフルオライトにも降り注ぐ陽射しに草花達は変わらず顔を出し、小さな風でも揺れる。地面で寝転がる葡萄髪の男は名前など知らない花を見つめ、血で滲んだ指先を伸ばした。が、触れるよりも先に堅い物で腹を叩かれた。
「っが!」
勢いよく落ちてきた物に、茶の瞳を見開いたケルビバムの悲鳴が上がる。
大きな身体を捩らせる様子に、木陰に座るマージュリーは堅い水晶がついた杖を引っ込めると、崩れた後ろ髪を反対の手で支えながら不機嫌そうに言った。
「それ以上汚い手で触るなら庭師として掻き消しますわよ」
「今は勘弁してくれよ! なんかこう、すがりたい時ってあるだろ!?」
腹を押さえたまま文句を言うケルビバムに、マージュリーは溜め息をつく。だが、自身を見つめていた男の視線が地面に移ると、呟きのようなものが聞こえた。
「ジュリにすがるわけにはいかねーしよ……」
不貞腐れたように頬が膨らんでいる。
すると、立ち上がったマージュリーは寝転がる男の元へと向かった。太陽を遮る紫紺の髪とガーネットのような赤の瞳には影ができ、素足が見える片脚が上げられた。瞬きするケルビバムの上に、勢いよく足が下ろされる。
「うわっ!」
突然の攻撃も、ケルビバムは身を捩じらせ回避した。
ザクッと、スコップを刺したような音と一緒に舌打ちまで聞こえ、心臓に手を当てるケルビバムは息を荒げている。目先には微笑みながらも両手に握り拳を作ったマージュリー。
「誰が避けて良いと言いましたかしら?」
「いやっ、普通に避けんだろ! ヒールの踵って、むっちゃ凶器じゃねぇか!! 刃物より怖ぇよ!!!」
「あらあら、さっきまで切っ先を向けていた男とは思えませんわね。それなら勝負を再開しましょうか?」
水に包まれた杖が剣に変化すると、羽を休めていた白いハクチョウが飛んでくる。
だがその大きさは全長一五十ほどしかなく、マージュリーの横に降り立ったハクチョウは脚に顔を擦り付けた。同時に体長一五十ちょっとの炎を帯びたオオカミが草むらから飛び出してくると、ケルビバムの前で喉を呻らし、ハクチョウと睨み合う。それを止めたのはケルビバムの手。
「やめとけ、ローボ。今は回復に専念しろ」
「あら、『解放』を解いてらっしゃらないから、てっきり殺り合う気があると思ってましたのに……逃げますの?」
上体を起こし、解放獣ローボを片腕で抱きしめたケルビバムに、マージュリーは目を細める。構わず、ケルビバムはローボを撫でた。
「ジュリもわかってんだろ……上の気配」
淡々と、けれどどこか重みもある呟きに、マージュリーも見上げた。自身らが休息するフルオライト城中庭の中央に建つ本城を。遥か先にある頂上など下から窺うことはできないが、眉を顰めたマージュリーは剣を杖へと戻す。
「あの男……いったい何者ですの?」
「さあな。ジジイの話じゃ、孤児だったのを上流貴族のアガーラ家が迎え入れたらしいが……それとあれは関係ねぇだろ」
「あら、いつの間にそんな話を料理長としまして?」
身を屈め、解放鳥シスネの顎を撫でるマージュリーに、頭を掻いていたケルビバムの手が止まる。まだ冷たさが残る風が吹くと、静かに茶の瞳が伏せられた。
「……オレが食堂部に入った頃、十年以上前の話さ。まだまだ元気に雷落としながらオレを騎士として料理人として育ててくれた頃のな」
胡坐を組む股の間にローボが座ると、頭にケルビバムの顔が埋まる。寂しそうに鳴くローボを撫でながら、篭ったケルビバムの声が聞こえてきた。
「考えれば……そん時のジジイも咳き込んでやがったな。野郎の名前がNGワードだったんだろうが」
「NGワード?」
立ち上がり、片眉を上げるマージュリーにケルビバムは顔を上げる。真っ直ぐな茶の瞳に捕らわれたかのようにマージュリーが動けなくなっていると、彼の口がゆっくりと開かれた。
「ジジイ……あとムーランドに、なんか盛られてるらしい」
「え!?」
「あるキーワードを口走ると心臓を叩く菌みたいなものらしいが……よくは知らねぇ」
「貴方……それを誰から?」
「ん? ああ、ムーランドだよ。篭ってる野郎に飯を届けに行った時、様子がおかしかったから問い詰めたんだ。そこで風文字で教えるとか、捻くれたガキだよな」
真剣だった表情は苦笑に変わり、笑いながらローボの頭を叩く。外れた目線に一息ついたマージュリーは代わるように赤の瞳を向けた。
「それで貴方は……宰の君に就きましたのね」
ケルビバムの笑う声がやむ。
静寂が包む中庭には二人と一匹と一羽しかおらず、鳥一羽も虫一匹も飛んでいない。だが、それらとは違う黒い生き物達が宙を飛び交う声は聞こえ、大きく息を吐いたケルビバムは空を見上げた。
「オレさー……バカだから、野郎に怒鳴り込んじまったんだよ。当然理由なんて吐かねぇし、二人を助けたければこっちに就けとか笑顔で言われるしさー……」
「御馬鹿、ですわね」
「マジでなー……ついでに言うと今気付いた。ムーランドはまだしも、ジジイはぜってぇ床から出てきたもんに捕り込まれたぜ」
戦いの意味を失ったかのように頭をガックシ落としたケルビバムに、マージュリーは額に手を当てた。同様にシスネも片羽で顔を覆い、ローボは主人の背中を頭で擦りつける。
その様子に苦笑したケルビバムは地面に広がる赤のマントを握った。
「だからもう自由にやってやるんだ。自分が犯したことなんて消すことはできねぇし、団長を失脚されるかもしれねぇ……それなら最後ぐらい国竜として護らねぇと……ホント、ただの」
「御・馬・鹿、ですものね」
言い切るより先に言われ、ケルビバムの頭はさらに沈む。
視線だけ上げた先には腕を組み、片眉を上げたマージュリー。けれどその頬は膨れているようにも見え、目を見開いた。そんな彼に気付く様子もなく、マージュリーはそっぽを向く。
「まったく、熱血バカなのも他人を思いやるのも大概にしていただきたいですわ。それで元の関係に戻れなくなっては意味がないでしょうに」
「……んだよ、ジュリ。妬いてんのか?」
「なっ、何をバカなことを……!」
口角を上げた男など知らず、赤面したマージュリーは否定する。
だが、ケルビバムが回した片足が両足に当たり、突然のことに体勢を崩してしまった。倒れる主人に慌ててシスネは両翼を広げるが、跳びついてきたローボに押し倒される。
同様にマージューリーも倒れるが、腰に回った腕に支えられ、地面へ落ちることはなかった。
片膝を折った男は、支える彼女をゆっくりと地面へ寝かすように下ろす。
その顔はどこか嬉しそうにも見え、マージュリーは赤面したまま睨んだ。だが、彼女に跨ったケルビバムは顔を近付け、頬を撫でる。
「顔が赤いなジュリ……どした? 寂しさから焼きもち焼いたか?」
「そ、それは貴方でしょう!」
「ああ、そうな……寂しかった」
呟いたケルビバムはマージュリーの肩へと顔を埋め、首筋へと口付ける。その刺激にマージュリーは身じろぐが、跨れていては敵わない。その間に耳元で囁かれた。
「なあ、ジュリ……庭師として、騎士として、恋人として怒りしかなかったって言ってたお前は今どう思ってる? また前のような関係に戻れると思うか?」
頬にあった手が彼女の髪を撫でる。不安が混じった声に、向き合った二人の距離は近い。
互いの服は破れ、傷を作り、血の痕がいくつもある。マージュリーもまたケルビバムの頬についた血を指先で拭うと、真っ直ぐと目を合わせた。
「とんでもないお人好しに大馬鹿な男を好み許す女なんて、わたくし以外いないでしょ。貴方が誠意を見せたいと言うなら、協力してあげなくもないですわ」
「ジュリ……」
揺れる茶の瞳に一息ついたマージュリーだったが、すぐ意地の悪い笑みを向けた。
「何より傷物にした責任は取りなさいな」
赤面していた時とは違い、堂々と言い張る彼女にケルビバムは呆気に取られる。だがすぐに笑いが込み上げてきたのか、くすくす笑いながら彼女の顎を持ち上げた。
「はは……そうな、ジュリはそういう女だよなあ……んじゃま、手付金を先にいただいて張り切るか」
同じ笑みを向けたケルビバムにマージュリーな何も言わない。
ただ寄せられる唇を抗うことなく受け入れ、日の光のような暖かさを全身で受け入れる。ずっと傍にありたかった者とまた飛べるように。
オオカミとハクチョウがケンカしているのを横目に──。
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独特なお線香の臭いに包まれた『王の間』は薄暗い。
それはカマキリやハリネズミ、この世界では見ない動物に似た姿を取る全身真っ黒な生物。青い唾液を吐く魔物達に光を通すガラスを遮られたせい。それらは部屋全体を囲み、獲物を見つけたような目でわたし達を見つめているが、わたしは壇上に佇む人に釘付けだった。両手に黒薔薇を描いたノーマさんに。
「黒薔薇……いたんですか……?」
魔物より気にしてしまうのは庭師の性か。
けれど“花”としての黒薔薇ではない、彼の手に描かれているのは団長さん達しか持っていないはずのタトゥー。それも『虹霓薔薇』にはない色。
「白はいるけど……黒は知らない……」
片膝を折ったまま答えたルアさんの目は辺りを囲む嫌いな魔物ではなく、わたしと同じようにノーマさんを凝視していた。お義兄ちゃんとセルジュくんも息を荒げながら上体を起こす。
「んなことより……国を沈めるとか言わなかったか?」
「しかも……あの人の合図で魔物が現れたように見えたな」
二人の瞳も鋭く、困惑の色が見るが、指摘に思考を黒薔薇から魔物に移す。
確かに彼が手袋を外すと同時に現れた魔物。わたし達には捕食者としての目を向けているのに、ノーマさんには一切向けられていないのがわかる。
まるで命令を待っているみたいに動かない魔物に冷や汗が流れてくると、苦笑が聞こえてきた。
「ずいぶん時間を掛けたと思ったが、まだ動けるということは充満しきってなかったか」
「まさかてめぇ……そのために時間稼ぎさせてたのか……?」
ふらつきながらも立ち上がったルアさんは剣を握りしめる。
時間稼ぎで浮かぶのは今まで阻んできたケルビーさん、ナナさん、ムーさん。その理由が『死に場所』という『王の間』に薬を充満させることというなら、あまりにも無情すぎる。たったそれだけのために団長さん同士が戦うことになるなんて。
「元々この場所を最期にする気でいたからな。だが、グレッジエルのせいで計画が狂った」
一息ついたノーマさんの言葉と視線に、握りしめていた両手を解いたわたしもお義兄ちゃんを見る。眼鏡のブリッジを上げ見えるレンズ越しの瞳は鋭い。
「やはり、俺とキラ男をアーポアクへ行かせたのは、モモから引き離すためでしたか」
「正解。青だけでも面倒なのに、お前と橙がいては支障をきたすからな。もっとも予想より早い出立と帰国に頭を抱えたが」
「「シスコンパワー怖っだ!!!」」
ハモったルアさんとセルジュくんに蹴りが炸裂し、床に倒れる音が響いた。また眼鏡のブリッジを上げたお義兄ちゃんはわたしの肩を抱くと、ルアさん達を横目に睨む。
「ドアホ共の台詞を打ち消してやりたいが、それを見据えてあの“餌”を垂らされたのなら俺の落ち度だ」
「ははは、行って無駄ではなかっただろ? “彼女”に会えたのなら」
笑いながら、けれど目を細めているようにも見えるノーマさんに、肩を抱く手が強くなる。見上げればお義兄ちゃんは歯軋りし、肩を震わせていた。
「いつからだ……」
「ん?」
「いつから彼女を……異世界人のことを知っていた!?」
「え……?」
昔と同じような口調で声を荒げる義兄に、起き上がったルアさんもセルジュくんも目を見開く。けれどわたしは誰が“異世界人”のことを知っていたかに驚いていた。そして答えなど聞かなくとも義兄の視線を追えばわかる。震える声でわたしも同じ問いを投げかけた。
「ノーマさん……知ってたんですか……? 異世界人(わたし)のこと」
「…………知っていた、と言うならロギスタン夫妻もそうだが?」
「え!?」
「もっとも私同様、知っている内容などたかが知れているだろうがな」
瞼を閉じたまま一息ついた彼に、わたしの視線はお義兄ちゃんに移る。
その表情はどこか苦痛を見せ、目を合わせていなくても灰青の瞳が揺れているのがわかった。いっそう困惑が広がる。異世界人のことなんて知らないと、ノーマさんも養親もお義兄ちゃんも言っていた……なのになんで。
動悸が嫌な音を鳴らしていると、再度訊ねるように向き直した。
「じゃ、じゃあ、もしかして“佐久間 蛍”さんのことも知ってたんですか!?」
唐突に浮かんだ同じ異世界の人。
彼女が現れ亡くなったのは二十年以上も前。でも、薔薇園で塔の管理をしていたのなら養親は知っていたかもしれないし、十代だったノーマさんもどこかで会っていたのかもしれない。何よりピクリと眉を動かした彼に、間違いではない気がした。
喉を鳴らすような魔物とは違う、重い空気が包む。
それは片手で瞼を覆ったノーマさんから発せられる黒いオーラのせいかはわからない。何かを話している様子のルアさんとセルジュくんよりも、確かに見える黒いものに震える両手を握りしめる。
しばらくして、呟きのような声が聞こえた。
「ああー……懐かしい名前だな」
「やっぱり知っ……!」
指の間から向けられる鋭い深緑の目に、言葉が詰まった。
胸元から発っせられる光のように黒いオーラも勢いを増すように放出されると、魔物達も一斉に声を上げる。嘲笑っているかのようにも響き、わたしとお義兄ちゃんは後退りしてしまった。
ただ目先の人の右手がゆっくりと上がり、口が開かれるのだけは見える。そして声も。
「すべてはあの女と──」
吐き捨てられるかのような声は勢いよく振り下ろされた手と、一斉に飛びつく魔物達の声に消される。舌打ちしたお義兄ちゃんは恐怖で足が動かないわたしの腰を抱くが、お線香のせいか足元がぐらついた。
「お義兄ちゃん!」
「く……!」
なんとか倒れないよう踏み堪えるが、その間に数百の魔物が襲いかかる。
硬直したまま凝視するしかないわたしの頭上を、真っ黒な口から零れる青い唾液が降り注いだ。けれど、その青とは違う青空のようなマントが遮ると、激しい閃光と爆風が起こる。咄嗟に瞼を閉じ、お義兄ちゃんに抱きしめられるが、衝撃波を受けることも飛ばされることもなかった。代わりに甲高い悲鳴が響く。
覚えのある悲鳴に背筋にゾクリとしたものが走った。
やんだ光に恐る恐る瞼を開くが、目先には金色の髪と白のマントを揺らすセルジュくんの背中。両手を翳す彼の前には堅い土壁が数メートル高く現れ、衝撃から守ってくれたのがわかる。
息を荒げながら片膝を折った彼と同時に土壁は消え、青のマントを揺らす人が姿を現した。
「よっし……セルジュにしては上出来だ……」
「……てめーも……っ、あとで覚えとけよ……」
汗を流しながら呼吸を整えるセルジュくんは翠の瞳を細める。
その視線を受ける人はなんでもない様子で銀色の刃についた液体を振り払い、白の大理石を青に染めた。辺りには黒い物体だったものが所々で積み重なり、肉片らしき物が見えるが、お義兄ちゃんの手に顔を戻される。
固定されたことに視線だけ動かすと、ステンドグラスには飛沫がかかったような雫が散り、数百いた魔物は一掃されていた。
宙には虹色に輝く全長一四十ほどの鳥のような竜っぽいような生き物が飛び、わたしは呆然と見つめる。目先に立つノーマさんもさすがに冷や汗を見せながら口笛を吹いた。
「『魔封香』の他に魔力封じの鎖もしていたというのに……バケモノか?」
「褒め言葉……として受け取っておくよ。伊達に十年も“この称号”を背負ってるわけじゃないからな……だからこそ覚悟しろよ」
冷たさを含んだ声の主は剣を持つ手とは反対の手で懐からある物を取り出す。眉を顰めたノーマさんに、それを指先で弾いたルアさんはどこか愉し気に口角を上げた。
「俺の大事な者から大事な物を奪い泣かせたヤツは──容赦なく散らす」
青水晶の瞳を細めた青薔薇騎士の手に収まった物。
それはポケットを触るわたしの手に収まる物と同じ、薔薇の彫刻が施された──庭園の鍵。