中 編
どれだけ憧れ願っても、目の前に広がるのは現実(リアル)。
自分の思い通りになる、最強になれる仮想世界(バーチャル)ではない。ただ淡々とした毎日だけを過ごし、誰の目にも留まらない群衆(モブ)だ──。
「おはよう、タキシー嬢」
「リリーズセイントっ!!!」
「あああ゛あ゛ぁぁーーーーっ!!!」
アルカ杖を向けて必殺技を放つと、私服男は大袈裟なリアクションを取りながら膝を着く。当然キラキラ効果も光線も出ない玩具なのでフリだけ。鼻息を荒くしていると、注意の声が飛んだ。
「これ、タキシー殿。遊ぶのはあとにするでござるよ」
「あ、社長さん! なりーさん絵の抜刀斎抱き枕持ってきましたよ!! おまけ冊子付き!!!」
「よっし、雅臣! 今日はぞんぶんに楽しむでござる!!」
「仕事しろっ!」
すかさずツッコミを入れるが、某るろうに抜刀斎ファンで今日もコスプレをしている社長(♀)は満面笑顔で紙袋を受け取っている。頭痛がしていると『STAFF』の腕章を付けた男に、観察するような目を向けられた。
「今日は制服か。変身後(リリネット)とはえらく雰囲気が違うから一瞬わからなかったよ。さすが『レイヤー界の魔術師』」
「え、ウソ!?」
「タキシード少年さんなんですか!?」
通り名に、待機列にいたレイヤーさんが驚きの声を上げる。
そんなあたしはアルカ杖を持ってはいるが、腰まである茶髪(アホ毛つき!)にハーフリムの眼鏡。白のシャツに黒のネクタイを締め、赤チェックのワンピースにブラウンのカーディガン。
『リリネットあるか』の主人公“あるか”が通う学校制服で、海浜公園で行われているコスプレイベントに来ていた。仕事で。
あたしが勤めるのはコスプレ専門社。
イベントはもちろん、様々な世界観に合わせたスタジオ経営を全国展開しているため、レイヤー界ではそれなりに有名だ。特に昨今、世界的にもメジャーになったコスプレは各方面とのコラボ企画も多くなり、今もまた大きなプロジェクトが進行している。
何を隠そう、現依頼元の担当者がこの男。
過去最大の黒歴史を作らせた張本人──安心院 雅臣。
コミケが終わり、会社に現れた時は目を疑った。
しかも名刺には覚えのある“A”に、ハイビスカス。それが彼の勤める高級リゾートホテルで、一夜を過ごした場所であることを思い出した時は盆帰りした先祖と共に逝こうかと思ったほど。
何より提携して『レイヤー向けの宿泊プランを作ろう!』なんてバカな話し信じたくない……だってこいつ。
「“かこみ”って?」
「レイヤーを中心にカメラマンが囲むこと!」
「“なまもの”?」
「アーティストや芸能人! 生身の人間!!」
「“はんなま”?」
「実写ドラマや特撮の役!」
「なんかエロいね」
「アンタの頭がね! つーか、イチイチ聞くなっ!! 調べろ!!!」
コスプレ知識がまるでない。本当にない。コミケの声かけはナンパかと疑うほど。これで提携なんて出来ないし認めない。絶対──と、思ったニ週間後。
「あ、リズリー嬢。それが初出しのキートン閣下スか?」
「そうなの! やっと完成してね」
「コスプリ機ありますよ。俺? 嬉しいけどスタッフなんで無理なんスよ」
「……若さとは良きものでござるな。ウチに転職せぬだろうか」
感心するように頷く社長とは反対に頭を抱えた。
コスプレの“コ”の字も知らなかった男は今や社員並みの知識を持ち、数回しか会っていないレイヤーと顔馴染みになっている。顔も愛想も良いせいか『素敵なスタッフさんですね』と、完全にウチの社員扱い。
「タキシー嬢は合わせOKな「アンタの目的はなんだあああぁぁーー! ウチを掌握してどうする気だあああぁぁーーっ!! こんちくしょーがあああぁぁーーっっ!!!」
軽やかな足取りでやってきた男の胸倉を掴むと大きく揺す振る。
放り投げたアルカ杖をキャッチした社長に止められるあたしは涙目だが、安心院は頬をかいた。
「目的って言われたら情報収集なんだけど……やっぱみんな、レイヤー仲間の家やビジネスホテルに泊まるみたいで、結構難しいね」
ちゃっかりしている反面、乾いた笑いに手が止まる。
数は少ないが、レイヤー向けの宿泊プランというのは実在する。あたしは行ったことないが、周辺を撮影スポット化し、宿内でもコスプレしたまま過ごせるというものだ。けどそれは宿や周辺の理解があってこそ。彼が勤めるホテル、しかも『高級』と付けば躊躇いもする。
「なんでそんなに……したいわけ?」
尖った言い方と睨みに、安心院は瞬きする。
それからしばし考え込むように視線を上げると、ニッコリと微笑んだ。
「好きな作品で過ごすなんて楽しそうじゃん」
「リアルと一緒にすんなっ!!!」
怒号に、安心院どころか周囲も驚いたように目を丸くした。
ただ一人、溜め息まじりの社長がアルカ杖を差し出し、噛み締めていた唇を解くように深呼吸したあたしは受け取る。そして、安心院と顔を合わせることなく砂浜で待っているレイヤーさんの元へ足を向けた。
歩きながらも胸や喉の奥がムカムカする。
あたしがコスプレをはじめた頃はまだ世間から疎まれ、卑しい目を向けられるだけだった。それが今では商売にもなるほど認知度が高くなり、視線も好奇と憧れに変わった。
嬉しくないと言えば嘘になる。けど、流行だから、面白そうだからといった安易な気持ちは侮辱だ。なんだって社長は引き請けたのか理解できない。
「タキシー、笑顔笑顔☆」
「してましてよ?」
「怖いっちゃ~」
あるか口調で笑顔を向けるも、メイドコスで列整理していた同僚(スタッフ)二人は涙目。
気にせず公式水着のアルカコスをしているレイヤーさんとポーズを取るが、いつもは気にならないシャッターやフラッシュが不快に感じる。キャラに成りきれていない証拠だ。
コスプレを遊び感覚で見ている人なんて山ほどいたのに、彼を考えると笑顔も崩れ──。
「ほら、もう少し笑顔で屈んでー」
指摘に身体が跳ねる。
だが、もう一人のレイヤーさんの事だったようで胸を撫で下ろした。同時に、カメラとの距離が近いことに気付く。
十人ほどのカメラマンに囲まれている中、寝転がって撮影している中年男が二人。海風であたしのスカートが捲れる度に嬉しそうにシャッターを切っている。スパッツを履いてるとはいえ気分が良いものではないし、水着の彼女は両腕で胸を寄せての具体的なリクエストに戸惑っている。どちらもマナー違反と呼べる行為で、同僚達も注意を促した。
「ローアングルやポーズを強要するのはやめてください」
「強要なんかしてないしてない。本物のアルカちゃんだってしてたポーズじゃん」
「そもそも撮ってもらいたいから、水着選んだわけでしょ?」
笑うカメラマンに同僚達は困惑した様子であたしを見るが、すぐに顔を青褪めた。笑顔も忘れるほどあたしが怒っているからだろう。
ただでさえ最悪な気分にトドメを刺す罵言。拳を握ると、慌てる同僚を他所に前に出る。
「お兄さん方の写真、見せてもらっても良いスか?」
一歩で止まると、全員が声の主である安心院を見る。
笑顔であたし達とカメラマンの間に入ってきた彼は|レイヤー側(あたし達)に背中を向け、訝しむカメラマン達に顔を寄せた。
「水着で胸寄せっていうとニ十六話で好きな男に見栄張って見せるとこでしょ? そのシーン俺も好きなんで、ぜひ見せてください」
ガチ勢の発言に誰もが唖然とするが、横から見ているあたしは息を呑んでいた。笑っている口元とは違う、鋭い目に。
「まさか……胸や脚だけで、人物(レイヤー)を撮ってないってことはないっスよね? 部分撮影は盗撮と一緒で犯罪スよ?」
「なっ!?」
明らかな動揺を見せるカメラマンの腕を、すかさず安心院が取る。
掴まれた腕は必死に引き剥がそうとしても一向に緩む気配はなく、カメラを引き寄せた安心院は鋭い眼光を向けた。
「彼女達が愛してるキャラだからこそコスプレしているのであって、アンタ達のオカズになるためじゃないんだ。撮らせてもらってる恩も感じないカメコは好き勝手できる妄想(バーチャル)に帰れよ」
いっそう冷ややかになった囁きが聞き取れたのはあたしとカメラマン達だけ。顔面蒼白となった彼らの手からカメラを取った安心院は笑顔になる。
「ひとまずスタッフとして盗撮じゃないか確認させてもらいますよ。あ、RAM嬢。社長さん連れてきてくれます?」
「は、はいっちゃ!」
指名された同僚は何故か敬礼を取って駆け出すが、あたしは彼の背を見つめていた。すると振り向かれ、身体が跳ねる。
「ここは任せて、タキシー嬢は撮影会の続き楽しんでもらって」
「……うん」
先ほどまでとは違う優しい声と笑み。
それは雨の日に死した推しに涙を零すあたしを慰めた時と同じで、徐々に気持ちが軽くなっていくのを感じた。
* * *
太陽が少しずつ海の彼方へ消えはじめる夕刻。
無事にイベントは終了し、社長の挨拶が終わると現地解散になる。食事に行く同僚達の誘いを断り、アルカ杖を挿したカートを引きながら駐車場へ向かっていると、木々に覆われた自販機横のベンチに座る安心院を見つけた。
真剣な顔で膝に置いているノートパソコンを打っているのかと思ったが、横から見れば携帯を弄っているのが丸見え。しかも指の動きが異常に速いことにゲームだとわかる。
「現代っ子だなー」
『最近の子は』と言っては失礼だが常に携帯を持ち、休憩時間になれば終わるまで弄り、連絡もほぼメール……まあ、仕事外のタメ口は社長やあたしらも承認してるし、基本マナーは良いからマシだけど、総じて緩いのは確かだ。
カメラマン相手の気迫は気のせいだったかと近付くと、気付いたように視線が上がった。
「あ、お疲れ。タキシー嬢」
「お疲れ……おしるこで良い?」
「フツーにコーヒーが良いです」
自販機にお金を入れたあたしの指に苦笑を返した安心院はゲームを停めると、胸ポケットから別の携帯を取り出す。
「ニ台持ってるの?」
「いや、会社用と自分用とゲーム用の三台」
ズボンポケットから出てきた別の携帯に、気付けば無糖コーヒーを押していた。数秒沈黙すると手渡し、安心院も数秒沈黙すると一礼。ノートパソコンを片付けた鞄を脇に置き、スペースを空けてくれた。
缶ジュースを買ったあたしも礼を言って座ると、ゲーム用の携帯を覗き見る。CMでも観る有名作から知らない作品まで多種多様のアプリが並んでいるが、ホントにゲームしかない。
「ゲーマー?」
「ヲタクジャンル的にはゲームとフィギュア集めかな。ゲームしてる時に連絡くるの苛立つからもう一台持ったんだけど、給料が全部パケ代や課金で飛んじまって……ああ、初ボーナス低いし、社会人ツライ」
「わかるー……て、初ボーナス?」
社会人になった頃を懐かしみながら缶蓋に手を掛けるが、疑問に眉を顰める。うなだれていた安心院は首を傾げながら自身を指した。
「俺、四年大を出たばっかの新入社員だけど?」
「新入……はああああぁぁっ!?」
絶叫と共にベンチから立ち上がると缶を落とす。
若くして担当なのは高卒で就職したから経験豊富なのだろうと思っていたのが、まさかの新人。考えれば彼以外の関係者を見たことない……え。
「新手の詐欺!?」
「いまさら!?」
真っ青な顔で叫ぶあたしに安心院も叫び返すが『まあ、社長さんにも疑われたけどね』と、力ない声で話す。
「新入社員を対象に新しい顧客を掴むコンペが開催されて『人気アニメや漫画の部屋を作ろう』が通ったんだ」
「通ったの!?」
「ちなみに発案者は俺。だから担当です」
「うおおおぉぉーーーーいっ!!!」
やっちまったという苦い顔に、勢いで頭を叩いてツッコミ。
それなりに強く叩いたはずだったが、平気そうにあたしの缶を拾った安心院は軽く振りながら木々の間から見える海に目を移した。
「けど、人気作は移り変わりが激しいし、泊まってもらうには別の企画が必要になるからって役員のおっさん達に却下された。ま、本音は高級ホテルでそんなのって感じだろうけど」
苦笑に何も返せないのは、あたし自身知っているからだ。
二次元に……いや、どんな趣味にも理解してくれない人がいる。聞く耳なんか持たないし、関与してもらいたくないから無視がいい。そう唇を噛み締めていると『プシュー』という音と共に飛んできた泡が顔にかかった。
「冷たっ!」
「はははっ、ナイスヒット」
突然のことに顔を背けるも、前髪も眼鏡もびしょ濡れ。
笑う安心院の手にはあたしの缶ジュースがあり、開かれた飲み口から泡が溢れている。炭酸だったことを思い出すと眼鏡を外し、荒々しく腕で泡を拭った。
「もうっ、何すんの!」
「だって辛気臭い顔してるからさ」
「誰のせいよ! そもそも却下されたのになんで続けてんの? しかも余計反感を買いそうなコスプレに変えて」
「タキシー嬢のおかげだよ」
カートに手を伸ばすよりも先にタオルを差し出されるが、あたしだけを映す目に動けなくなった。夕暮れにいっそう濃くなった影が彼にかかると、結ばれていた唇がゆっくりと開かれる。
「はじめて会った日……居酒屋でエリオール語りながら自分がコスプレイヤーで、コスプレ世界大会でもエリオールで優勝したことあるって写メ見せてくれたろ?」
「うっそん!?」
「あ、マジで酔ってたのか。ついでに仕事にもしてるって会社の名刺もくれたけど?」
「うっそん!?」
欠片も記憶がないあたしは顔面蒼白となるが、安心院は苦笑交じりに携帯ケースから名刺を取り出す。レイヤー用ではない、会社用の名刺を。
「そん時、遠征費がかかるとか撮影場所が中々ないって言ってて……力になれるかなって」
「力……わっぷ!」
眼鏡を外していたせいか前屈みで名刺を確認していると、伸ばされた腕に抱きしめられた。
傍にあった缶は地面に落ち、大きな音を立てながら長くて緩やかな線を水と泡で描く。頬に感じるのはTシャツ越しでも感じる胸板、耳に届くのは小波でも彼の心臓音でもない、自分の動悸。
こんなにも激しいのは予想外だからだと抵抗するよりも先に話が続く。
「最初はコスプレなら話題になるかもしれないって思った……けど、社長さんや社員さん、レイヤーさん達を見てたら本気でコスプレが好きなのが伝わってきて、話題は話題でももっと楽しめる場所として協力したいって考え直したんだ」
耳元で囁かれる言葉はどこか辛そうで甘い。
僅かに疼く身体を否定しながら視線を動かすと、笑みを浮かべながらも苦しそうに見える安心院と目が合った。
「特に、二次元から出てきたかと思うほど完璧なコスをするタキシー嬢を見たらね」
「完璧……?」
その二文字に目を見開くのは、ずっと『ニセモノ』だと言われ続けてきたからだ。
コスプレなんてただの仮装だ、二次元(ホンモノ)には到底及ばない、三十にもなってまで着せ替えごっこするな。そんな悪意に苛まれながらも続けてきた。意地になっていただけかもしれない、見返したかっただけかもしれない。気付けば世界大会で優勝し、魔術師とまで呼ばれるようになった……でも『すごい』、それだけだった。
「タキシー嬢……?」
安心院が驚いたように顔を上げた気がしたが、あたしは言葉にならない気持ちを、涙を、彼の腕の中で隠していてわからない。ただ、望んでいた言葉を言ってもらえただけなのにずいぶん長く伏せっていた。
しばらくするとタオルを差し出され、ありがたく涙を拭う。それから間を置いて、静かな声が落ちてきた。
「……来週、改めて役員のおっさん達の前でプレゼンすることになってる。コスプレに変えたことでまた反感は買うだろうけど、ホテル(ウチ)はコミケ会場に近いせいか海外からのお客さんもコミケ(それ)目当てだったり、アニメや漫画、もちろんコスプレに興味持ってるから企画賛同に署名してもらった。俺以外の社員やレイヤーさん達にもね」
「……心許ないわねー」
またちゃっかり動いていたことに内心感心すると顔を上げる。
涙の痕はあるだろうが、沈む夕暮れのおかげで見えていないかもしれない。何より目を丸くした安心院に、口元が弧を描いた。
「仕方ないからあたしも署名してあげる……ついでに社長と一緒にプレゼン付き合ってあげるから、それなりに安くて満喫できるプランを練ってもらうわよ」
意地悪い笑みに安心院は呆ける。だが、すぐに笑いだした。
「っははは、OKOK。レイヤー様の意見は必須なんで俺からもお願いします」
「それは良かった……てことで、そろそろ離してくれない?」
涙の壁にしておいてなんだが、さすがにずっと腕にいるのも異様だし、改めて考えると恥ずかしくなる。けど安心院はタオルを取ると、まだ濡れていたあたしの前髪を拭きはじめた。
「こういうシチュで離さない男はいないと思うけど?」
「……二次元なら嬉しい状況かもね」
「つまりドキドキしてないと?」
「そーいうこと」
目を逸らし、若干棒読みで答える。
また心臓の音がうるさいのは誰かに見られるかもしれないという緊張。決して彼に反応しているわけじゃないと決め込んでいると、唇にタオルが触れた。
「笙子さーん?」
「なー……っ!?」
考え込んでいたせいか、本名だったせいか、咄嗟に顔を上げると唇が重なった──タオル越しに。
「んっ……!」
名刺の次はタオル!?、なんてツッコミはタオルと唇に阻まれる。
何より名刺の時とは違い、頭を固定され唇も離れない。むしろ何度も重ねては角度を変え、抉じ開けるかのように舌が挿し込まれた。当然タオルに隔たれ開きはしない。
「んっ、ふ……んん」
なのに舌を伸ばし、タオルの先にある彼の舌を突いては絡めようとする。でもやっぱり絡められない。それが焦れったい、もっとしていたい。二つの感情は別に見えて求めているのがわかる。火照り、疼く身体のように……あたしは。
「っはあ……はあはあ……」
やっと解放されるも、彼の腕から逃れることはしなかった。
むしろ捕らわれたまま胸板に顔を寄せ息を荒くしていると何かが当たる。それがTシャツ越しに隠れたペンダント、覚えのあるアレだとわかるが、笑い声に遮られた。
「ドキドキはしないのにキスはするんだ?」
「あ、アンタが無理やりしたんでしょ……コミケの時もだけどなんで」
「好きだからだよ」
甘い言葉に羞恥も忘れ見上げると、あたしだけを映す優しい微笑があった。
「完璧な“タキシー嬢”も良いけど、俺は“笙子さん”に惚れたんだ……あの雨の日に」
「え……?」
未だ呆けているあたしとは反対に笑う安心院はゆっくりと立たせると鞄に缶コーヒーを入れ、中身のない缶をゴミ箱に捨てる。それから鞄と一緒にあたしのカートを引くと、反対の手であたしの手を握った。
「気持ちについては諸々が終わってから……取り合えず飯に行こうぜ。“タキシー嬢”、何が食いたい?」
「…………回らない寿司。アンタのおごりで」
やっと出た声に安心院は苦笑しながら歩き出す。
その手に引っ張られるように、付いて行くように足が進んだ。
きっと顔を上げられないのも熱いのも眼鏡をしていないせい、夕日のせい、夏のせい。いいや安心院のせいだ仮想世界(バーチャル)だと視線だけ上げる。けど、気付いたように返ってきた笑みに、見た目で判断してごめんも、助けてくれてありがとうも、杖で殴ることも、バカも、何もかも沈む夕日が攫っていくかのように消え去った。
繋いだ手が両方とも暑い現実(リアル)だけを残して────。