前 編
──雨、いつの間に降ってたんだろ。
簡素な公園のベンチに座るあたし、赤石 笙子(しょうこ)はふと気付いた。
夏空は層の厚い灰色に変わり、途切れることのない雨が地面を打っては水溜まりを広げている。その上を嫌々駆けて行く女性達のように、自分の髪も会社帰りでヨレヨレだったスーツもずぶ濡れだ。
眼鏡も意味をなさないほど雨粒に塞がれているが、正直いまはありがたい。
見下ろす手には、自分同様に濡れた一冊の雑誌。
水を含んだせいで重く、少し動かすだけでも破けてしまう。それでも押さえていたページを震える手で捲れば、雨とは違う雫が頬を伝った。
「ああ……っ」
悲痛な声と共に雨と涙が開いたページに落ちる。
『次回、感動の最終回!』の文よりも、血だらけのまま微笑んでいる彼に、漫画雑誌に、何度も頭を振る。毎週会社帰りにコンビニで買い、目前にあるこの公園で読むのを日課にして早三年──推しキャラが死んだ。
最終回につれて嫌なフラグは立っていた。
でもまさかと、僅かな望みを抱いて迎えた今日。願い叶わず逝ってしまった悲しみに雑誌を持ったまま立ち上がると、雨雲に向かって叫んだ。
「「エリオーーーールっっ!!!」」
雨音すら掻き消す哀悼の叫びが誰もいない公園に響く。
誰もいない。そう思っていたのに、明らかに知らない声とハモっていた。しかも真後ろから聞こえたことに瞬きしながらゆっくりと振り向く。
辺りは既に薄暗く、降りしきる雨と濡れた眼鏡に視界は狭まっている。
それでも外灯から漏れる僅かな光が反対側のベンチを、背中を向けたまま突っ立っている一人を照らした。
一六十後半のあたしより一回り背が高く、肩幅や首、足の太さを考えれば男。しかもモデル体型。いい尻だと、悲しみも忘れた趣味の観察に走っていると男も振り向いた。
しまったと肩が跳ねるが、その容姿に今度は身体ごと跳ねる。
肩まである濃茶の髪は毛先が跳ね、白のシャツにジャケットを羽織り、黒のジーンズ。三十路のあたしなんかより断然若い男は想像以上に目鼻整ったイケメン。
開いた口が塞がらないでいると、男も驚いたように目を丸くするが、すぐに口元を緩めた。
「もしかして、お姉さんも?」
苦笑を漏らしながら指す男の手にはあたしが持つのと同じ漫画雑誌。しかも同じページに目を見開いた。
「エリオールファン!?」
「お姉さんほどじゃないよ」
あっさりとした否定に肩透かしを食らう。
すると男はくすくす笑いながら腕に雑誌を抱えると、ベンチを回ってあたしの前にやってきた。ずり落ちた眼鏡のせいで顔はぼんやりだが、外灯に反射したペンダントが目に入る。それに気を取られていたせいか、目尻に触れる指先に反応が遅れた。
「本気で泣くほど好きだったんだろ?」
雨とは違う涙を拭った男は目線を合わせるように屈む。
その優しげな微笑にあたしの目尻には熱いものが集まり、顔を伏せると雑誌を抱きしめた。
「うん……登場した四話から……」
「ああ、あの登場はすごかった。最初は敵だったけどニ十六話で断頭台斬ってさー」
柔らかな声に身体が震えると何かが頭に被さる。
それが彼のジャケットだとわかったが暗幕のようにも思え、脳裏に焼きついた話数、場面、台詞……推しキャラが流れていく。
次第に堪えられないほどの涙が溢れ、雨粒と一緒に水溜まりへと落ちていった。
それからのことはよく覚えてない。
濡れていたはずのジャケットが冷え切っていた身体を暖め、震えすら止めたこと。なだめるように分かち合うように抱きしめてくれたこと。次第に雨音が心地良く聞こえたこと……薄っすらと残る記憶はある。
ただひとつ。出会って半日。
名前も知らない男と素っ裸のままホテルのベッドで朝を迎えたことだけは鮮明に覚えていた──。
* * *
「そ、それでどうしたんですか?」
「…………逃げた」
「えええぇぇ~~~~っ!!?」
「みききん、ウィッグ取って」
差し出した手に、親友“みき”は慌ててあたしのキャリーケースを漁る。賑わいを増す周囲を横目にピンクのマントを羽織ると溜め息をついた。
「幸い向こうは寝てたし、ホテル代だけ払ってきた……エクシリアロッド四本分は飛んだけど」
「ひえっ! 衣装とヲタク代にしか使わないしょうちんがそんな大金を!? だから天気悪いんですね!!!」
「うるさいなー」
南無阿弥陀仏を唱えるみききんから笑顔でウィッグを奪った。
それでも窓から見える雲行きの怪しい空に数日前を思い出す。今日よりも暗く、大粒の雨が降る中どこの誰かもわからない男と一夜を過ごした日を。
(居酒屋でエリオール語りしたまでは覚えてるんだけどなー)
泣きじゃくりながら酒を何杯も飲んで語り尽くしたのを最後に記憶がない。
酔い潰れ、風邪を引かないようホテルに運んでくれたと考えるのが妥当だろうが、みききんは心配そうに顔を覗かせた。
「お持ち帰りじゃないですよね?」
「その痛みはなかったなー。みききんみたいにキスマークもなかったし」
「私ついてるっ!?」
「いや、今日はない」
即答したが『今日は』に既婚者であるみききんは顔を真っ赤にさせた。
そんな親友に笑いながら腰下まであるピンクのツインテールウィッグをつけると、先端にレプリカ水晶がついたピンクの杖を握る。みききんの瞳が輝いた。
「アルカちゃんだーっ!」
歓喜の声に、肩と胸元が開いた白とピンクのミニドレスを翻す。
後ろは大きなリボンで留め、素足にピンクのショートブーツ。胸元には水晶のペンダント。目もカラーコンタクトのあたしはVサインを作った指先を口元につける。
「現実の心(リアルハート)でぶち抜いてあげる!」
「いっえ~いっ!」
決め台詞に、みききんが大袈裟なほど跳ねる。
リアクションに周囲の視線が集まるが構わずクロークに荷物を預けると、灰色雲でも蒸し暑い外へと出た。大勢の人が溢れる中、さっきよりも好奇な目に晒されるが、その目と囁きはみききんと同じだとわかる。
「あれって『リリネットあるか』だよね?」
「うっわ、すっげ似てる」
「“タキシード少年”さーん!」
ひそひそ話す大衆から、王子様風衣装の男装をした子が“今の”あたしの名を呼びながらやってくる。馴染みの顔に、笑顔で駆け寄った。
「久し振りー、アイアン! 今日のロレーヌコスも決まってるねー」
「いやいや、アルカちゃんには負けますって! あとで合わせましょうね」
「もっちろん!」
「あのー、写真いいですか?」
両手で握手を終えると、カメラを持った人達が集まってくる。
どっちに訊ねたか聞くとあたしだったため、コス仲間であるアイアンと別れて場所を移した。ちなみにコス仲間=コスプレ仲間の略で、今日は年に二回東京で開催されるアニメや漫画の大イベント、通称コミケの初日。
そしてあたしは“タキシード少年”という名で、愛してやまない作品のキャラクターに扮したコスプレ=コスプレイヤーを二十年している。今じゃ顔見知りのレイヤーやファンも多く、今日も人気作のかいあって芝生が広がる撮影エリアでは十数人、一八十度、カメラに囲まれていた。
「片目閉じでお願いしまーす!」
「はーい!」
リクエストに応えれば歓声が上がり『三、ニ、一』のカウントで一斉にシャッターが切られた。同時に『ありがとうございましたー』と挨拶解散を繰り返す。木陰で一息ついていると、両肩に手提げバックを担いだみききんが駆け寄ってきた。
「しょうちんお疲れー! はい、飲み物と頼まれてた本」
「おおー、ありがとー!」
「あと、なっちゃん用なんですけど、このサークルさんのとか……」
「ひななん、女子がいればなんでも良さそうだけどねー」
いわゆる薄い本と一緒に受け取った飲み物で乾いていた喉を潤すと、今はいない親友への戦利品を見せてもらう。するとまた撮影の声をかけられるが、あたしではなく、みききん。
空と白のグラデーションワンピに、青色の長い袖。
首元には赤の蝶ネクタイがあり、フードを被れば嘴とつぶらな瞳。ポケットから何匹も顔を出しているペンギンを擬人化させたオリジナルコス。
照れながら荷物を置いたみききんはピシッと敬礼を取った。
「しょうちん作品を宣伝してきます!」
「あははは、よろしくー」
笑顔で去って行く彼女の服はあたしの自作。
市販で買える物が少なかった頃に身につけた裁縫能力は今ではネット販売も出来るほど成長した。自分のコスもその一着で、水晶のネックレスはただのガラスを地道に研磨した物。
空に透かせばキラキラ輝くはずだが、生憎の雨模様。
本格的に降ってきそうな厚雲に溜め息をつくと、数日前に会った男のペンダントを思い出す。薄暗い雨の中ではわからなかったが、翌朝見たら銀色の“A”にハイビスカスと妙な組み合わせだった。
「つけたまま寝てたしなー……ナルシストか?」
「すみませーん、アルカちゃんの撮影いいですか?」
首を傾げていると、背後から男性に声をかけられる。だが今はみききんの荷物があるため、断ろうと振り向いた。
「ごめんなさい、今……っ!?」
瞬間、ビクリと身体が跳ねると固まった。
徐々に血の気が引くのは目前にいる二人の男。
両者とも一七十ちょいの痩せ型でラフな格好だが、腕や鎖骨を見るに筋肉はある。何より顔はパーフェクトのイケメン。
一人は右わけされたショートの黒髪で、オーバル眼鏡。どこか疲れている様子に付き添いといった感じだが、問題は笑顔のもう一人。
毛先が跳ねた濃茶に、曇り空でもわかる銀色の“A”とハイビスカスのペンダント。まさしく一夜を過ごした男ーーーーーーっっ!!!
「まさ、なんか固まってるよ?」
「おーい、大丈夫ですかー? アルカちゃーん?」
“まさ”と呼ばれる先日の男に手を振られ、はっと我に返る。
幸か不幸か、あたしは今コスプレ中。コンタクトだし、ピンクだし、気付かれるはずはないと必死に笑顔を作った。
「申し訳ないですが、友達を待って「しょうちーん、ただいまーー!」
うおおおぉぉーーーーいっ、みききーーんっ!!!
空気を読まず笑顔で帰ってきた親友に般若顔を向ける。目を瞬かせたみききんは男達に気付くと『あっ!』と頭を下げた。
「すみません、アルカちゃんの撮影ですよね!? どうぞどうぞ!!!」
うおおおぉぉーーーーいっ、みききーーんっ!!!
急いで自分の荷物を持つ親友の気遣いが痛すぎて両手で顔を覆う。幸い他にも撮影したいという人達が集まり、先日の男は携帯を取り出した。
「携帯(これ)でもいいですか?」
「……どうぞ」
「ありがとうございます。ハルハルは? 撮らせてもらわねーの?」
「俺は変身前のあるか派」
「それ、千風(ちかぜ)嬢に似てるからだろ……あと、本人前に他がいいって言うな」
律儀に断りを入れたり注意したり、マナーは良いようだ。
何も持っていない黒髪の男とは違い、紙袋は有名サークルの物。ポスターらしき物も入っているし、携帯にも知っている作品のストラップ。エリオールを知っているだけならただのファンだが、コミケでこれほど持っていればヲタク。つまり同志。
警戒心もなく意気投合した理由に納得するも、何故だか気持ちは真上にある空のように晴れない。
でも、みききんから受け取った杖を持って木陰を出れば、嬉しそうにカメラを構えてくれている人達。それだけで陽気に変わり、聞き慣れたシャッター音とリクエストに囲まれる撮影がはじまった。
何台ものカメラと人を前にするなんて、普段なら遠慮したい。
でも、キャラに成りきっている今は自然と笑顔になり、必殺技のポーズだって取れる。いつもの自分ではない誰かになることで羞恥も躊躇いも捨てることが出来る、出来ないことも出来る。そんな力がコスプレにはあり、喜んでくれる人もいるなら幸せなことだと思う。
が、未だかつてないほど逃げたい。
つい先日黒歴史を作ってしまった相手がいるせいだろうが、こんな気持ちになるのは初コスプレ以来。若気の至りとは違う失敗に早く終わってほしい。なのに視線は無意識に“彼”へと向いてしまう。
手に収まる携帯と、あたしを捉える片方の目。
その眼差しと笑みに『ありがとうございましたー』と聞いた時は“アルカ”の表情も忘れ呆けていた。ぎゅうっと、お腹の奥に感じるざわつきに気付かない振りをしながら撮影者さんに挨拶する。
「すみませーん!」
「ひいぃっ!」
が、最後の人と挨拶を終えると、また彼に声をかけられた。突然の悲鳴など構わず茶髪の彼は続ける。
「相方さんに聞いたんですけど、コスプレ服を販売してるって?」
「え、ええ……まあ少々」
「そのサイト教えてもらえます?」
黒髪の男と話しているみききんからあたしへと視線を戻した彼は微笑む。
まさか販売の方を聞かれるとは思わず躊躇うが、自己紹介もしていないし気付かれないだろうと、レイヤー名とサイト名を記した名刺を差し出した。すると、瞬きされる。
「タキシード少年……あれ、エリオール関係じゃないんだ」
「ひぃっ!?」
砕けた口調に肩が跳ねる。
いやいやまさかまさかと青褪めた顔を上げると、ニッコリ笑顔にぶつかった。
「この間はどうも、エリオールファンのお姉さん」
「ひ、人違いではなかろうか……」
全力で目を逸らすが、自分の口調が変わったことさえ気付かないほど内心焦っていた。
一番は何故あたしだとバレたかだが、訊ねたらバッドエンドだと、聞くな聞くなオーラを送る。口元に手を寄せた彼は小首を傾げた。
「てっきりエリオールのコスプレかと思ってたんだけど、もしかして明日明後日の予定?」
「うるさいなーっ! 喪が明けるまで出来るわけないでしょ!! ファンならわかれ!!!」
「え? ちゃんと俺、お姉さんと寝た翌日に追悼の花を編集部に贈ったよ」
「あたしだってアンタと別れたあと……あ」
つい感情的に口走り、墓穴を掘ったことに気付く。
みききんは『エリオール』と、ほろ泣きし、黒髪の男はドン引きしたような目。ダラダラと冷や汗が流れるあたしとは違い、彼は笑いながらネックレスを弄りはじめた。
「いやあ、元気そうで良かった。家を聞けないほど酔ってたし、ホテル行ったら脱ぎはじ「お世話になりましたーーーーっっ!!!」
杖を落としたことなど構わず、暴露する口を塞ぐ。
瞬きする彼にバレては仕方ないと真っ赤にした顔を近付けると睨み上げた。
「それでなんでアンタまで一緒に寝てたわけ?」
「ふぁっふぇおにゃあしゃ……ぷっは、お姉さんが俺を離してくれなか「ごめんなさいねーーーーっっ!!!」
謝罪と一緒にまた両手で口を塞ぐ。
そんなやり取りに飽きたのか、彼の背後でみききんと黒髪の男が膝を抱えたまま何かを話しているのが見えた。それをいいことに今度は真剣に、そして小声で訊ねる。
「何も……なかったよね?」
ホテルに運んでくれただけでも多大な迷惑をかけているが、記憶がないほど酔っていたとなるとまだ何かヤらかしていそうで怖い。身体の不調や、アレらしい痕はなかったが、互いに全裸だったのを考えると……あたしが脱がしたのか?
そんなことを思っていると、口を塞がれたまま彼は顔を近付けた。
コツンと額同士が当たるように唇も手の平に密着し、視線が重なる。カメラを向けられた時と同じ目に両手を離そうとするが、大きな手に掴まれてしまった。しかも片手で。
細い割りに力があって動揺するが、そのままゆっくりと両手を下ろされる。手の平に僅かな感触を残した唇が露になると薄っすらと開かれた。
「気持ち良かったよ」
覚えのある心地良い声に目を見開く。ひと呼吸後、また唇が動いた。
「マッサージ」
屈託のない笑顔に固まる。
だが『特に肩揉みが上手くてさー』の説明に、整体師キャラに惚れて教室通いしていたことを思い出した。
「なんだ……」
安堵なのかなんなのか、自分でもわからない息を吐く。
緊張が解けたように肩の力も抜けると顔を離すが、ピトリと何かが唇に当たった。それは渡した名刺で、見上げればまた自分を捉える目と目が合う。
さっきよりも何かを宿している気がして全身が熱くなるが、場所が場所なだけに離れなければと理性も働く。なのに未だ両手を捕まれているせいで動くことが出来ず、必死に振り払おうとした。
「でも、一番気持ち良かったのは……」
声が近い。そう気付いた時には額どころか鼻すらくっつき、覆う影がジャケットを被った時と重なる。そのまま動けなくなっていると、すぐ傍で唇が動くのを感じた。
「キス、かな」
甘やかな誘きと共に、唇が名刺越しに重なる。
黄色い悲鳴らしきものが聞こえた気がしたが、あたしの頭は真っ白。何より厚さのある紙でも、丁度唇が重なると僅かに湿り“彼”を感じた。
キスははじめてじゃない。恋人だっていたことある。
でも、名刺越しははじめてだし、名前も知らない男。なんで、どうして。そんな問いに答えることなく唇も名刺も彼も離れていった。呆然とするあたしに、指に名刺を挟んだ彼は湿った部分を見下ろす。
「同じようにナマがよかったけど……しゃーないか」
「……したの?」
振り絞った問いは震えている。
それでも見つめ続けていると、顔を上げた彼は微笑んだ。
「したよ。身体につけたらバレるし、一番感じることが出来る……嘘じゃない、本物のアナタって女性(ひと)を」
悪びた様子もなく言っているが、不思議と怒りが沸かない。
それは切なげに自身のネックレスを握っているせいか、あたしの頭がまだ動いていないせいか、激しさを増す動悸と疼きのせいか。
詰まってしまった喉に何も言えないでいると『まさー』と呼ぶ声。
唖然とする周りを他所に返事をした彼は名刺を仕舞うと背を向ける。と、また振り向いた。
「じゃ、次に会った時はホテル代以上のお礼するね」
さっきとは違い、普通の笑顔。
それが妙に腹ただしくて、急いで地面に落ちていた杖を握ると彼に向けた。
「その時はリリーズセイントを見舞ってあげるんだから覚悟なさい!」
アルカの必殺技を叫ぶと冷たい風が吹いた……気がする。
それでも目を丸くした彼は笑いながら手を振り、呆れた様子の黒髪の男と共に去って行った。入れ替わりでやってきたみききんは杖を向けたまま固まっているあたしを見上げる。
「黒髪の人ね、大好きな幼馴染さんを別の男に奪われたんだって」
「………………」
「まささんはヲタクで、二次元しか愛せないとか言ってたって」
「………………」
「……二人とも、ニ十三歳なんだって」
「年下に弄ばれたあああぁぁ~~~~~~!!!」
要らぬ情報に杖を握ったまま膝を折ると、空に向かって嘆きの声を上げる。
届いたように暗雲の空からは雨もない雷鳴だけが轟き、ただただ地面を叩きながら誓った。
次に会ったら、必殺技の前に杖で叩いてやる─!!!
*
*
*
なのに、二日目、三日目と、彼はコミケに現れなかった。
微妙なキスを見ていた多くの人の噂により、レイヤー仲間からはイジられ、撮影者からは『あの絡み、もう一回してください!』と言われたというのにメール等もなし。
本気で弄ばれたという過去最悪の黒歴史(コミケ)と化した。
その鬱憤を仕事で晴らそうと出勤して早々、スーツに眼鏡をかけたあたしは開いた口が塞がらない。反対に、目先の男は笑顔で“A”にハイビスカスが記された名刺を差し出した。
「“はじめまして”。ホテル『オーシャンビスカ』営業課の安心院(あじむ) 雅臣(まさおみ)です。よろしく」
ネクタイを締めたスーツに、アップにされた濃茶の髪。
キリっとした顔立ちは大人っぽいが、どこか含みのある笑みはイタズラが成功した子供のようにも見える。杖で叩くことより、自分を捉える目に脳内で大絶叫を響かせた。
なんで“彼(こいつ)”がコスプレ専門の会社(ウチ)にいんの────っっ!!?