前 編
夜の帳が落ちた真夜中。
ナイトドレスのまま音を立てないようバルコニーの戸を開いた十にも満たない少女は、頭上で輝く月と星々に感嘆の声を上げた。
「わぁ……きれい。ねぇ、南十字座ってどれ?」
幼いながらも訊ねる声は辺りを気にしてか小さい。
だが、人形のように白く愛らしい顔は無邪気に笑い、銀も交じった白金色の髪を手で押さえながら振り向いた。瞬く星のようにキラキラさせた紅玉の瞳は、灯りもない室内から出てきた男を見上げている。
「ヴァーカ、東(ここ)から見えるわけないでしょ」
無邪気とは程遠い、不機嫌な声。
月光に輝くのは肩に掛かるかどうかのサラリとした浅葱の髪。少女よりも遥かに背が高く、蜂蜜のような琥珀の瞳は甘さも見えないほど冷たい。しかし、端整な顔立ちは幾分幼く、青年というよりはまだ少年に見える。
「まったく、自国がどこにあるのかも分からないとは……次代の王が聞いて呆れるぞ、ユフィ」
皮肉がこもった言い方に少女ユフィは小さな頬を膨らませた。
「その王につかえるのがルーの仕事でしょ?」
「当然、仕事でなければお前のようなガキの護衛などしない。もういいだろ、部屋に戻るぞ」
「ええっ、十分って約束は!? わたし、サイコロに勝ったでしょ!」
「俺の体内時計は既に十分経った。以上」
砕けた口調の男はナイトドレスのユフィとは違い仕立ての良い白いコートにブーツ。両肩にはマントが留められ、腰には剣が納められている。
騎士にも見える身形とは裏腹に、ユフィの手首を荒々しく握ると背を向けた。
「ねぇ、ルーファス」
静かだが、充分抑制のある声に男ルーファスの足が止まる。
振り向くと、夜空で一際輝く星を一瞥した少女が微笑んでいた。
「あなた、口は悪いけど、一等(あの)星に負けない騎士になれるわ。絶対」
「……藪から棒になんですか」
「知ってるからよ。わたしが寝た後も剣の稽古したり、ワンダーに勉強を見てもらってるでしょ」
くすくす笑う声にルーファスは眉を顰めるが、ユフィは夜空を、自身らを照らす大きな光を見上げた。
「だからわたしも月に負けない銀竜になるわ。あなたに認められる王に……それまでそばにいてね」
照れた様子で微笑む小さな姫に、ルーファスの目が丸くなる。
だが、瞼を閉じると手を離し、片膝をついた。きょとんと見下ろす小さな手を改めて取った彼の双眸ははっきりと一人の姫を映している。
「それが姫君(プリンキピサ)ユーフェルティアの望みとあらば、このルーファス・リッテンバルク誓いましょう――南十字(スタヴロス・トゥ・ノトゥ)の星名において」
言葉と共に、手の甲に口付けが落ちる。
突然のことに肩を揺らしたユフィは頬を赤く染めたが、嬉しそうに微笑んだ。
そんな彼女にルーファスは『社交辞令ですよ、ヴァーカ』と呟き、小さいながらも充分な平手打ちを食らった。それでも平然と自身を抱える彼と彼の左耳に光る十字架のピアスに、肩をすくめたユフィは両手を首に回す。
歩きはじめる足音は心地良い子守り歌のようで、自然と紅玉の瞳が閉じた。
なんでもない誓いかもしれない。
しかし、彼女にとっては大きな意味があった。
遠からずやってくる国を背負う王として、強くあるために――。
――あれからニ十年。
六大国のひとつ、東に位置するトルリット国。
火山大国として知られるトルリットは年中五十度以上の熱帯地域。だが、海に面しているのもあり水不足に悩まされることはなく、地中から沸き出る温泉が観光資源になっていた。
青空の下、城の先端で揺れるのは翼を生やした銀の竜と十字架の国旗。
『竜』を崇める世界において王とは絶対なる君主(竜)であり、城の一室で執務をこなすトルリット王も銀竜と呼ばれていた。
「では伝令をジェリーに、その間ワンダーとランジュで警備を強化し」
「お言葉ですが陛下、ランジュは私と入れ替わりで火口調査に出ました」
「えっ!? そ、そう言え……あ、マオンちゃんごめんなさい」
冷静な指摘に肩が跳ねると、傍にあった木製のピンクのカップが倒れる。
中に入っていた三つのサイコロが傍で寝ていた黄褐色の毛に、ふさふさの鬣(たてがみ)を生やした家族。全長二百以上はあるオスのライオンに当たり、慌てて謝罪した女性はサイコロを拾い上げる。
毛先は緩く巻かれ、ひとまとめに上げられた白金の髪。
陽射しも強い中、ドレスから見える肌は白く、唇は愛らしい桃色。胸元で光る虹色のプレシャス・オパールのネックレスよりも、紅玉の瞳が印象的な美女。
彼女こそ、トルリット国の銀竜――――ユーフェルティア・イーリス・トルリット。
先日二十九歳になったばかりの女王は忙しない様子で別の紙束に手を伸ばすが、勢い余って倒してしまった。マオンと呼ばれるライオンも顔を上げ、宙に床に舞う紙にユーフェルティアの顔が青くなる。
反対に目先にいた男は慣れた手つきで宙の紙を掴むと身を屈め、床に散らばった紙を拾いはじめた。
「ヴァーカ……」
呟きはハッキリとユーフェルティアに届き、青かった顔が一瞬で真っ赤になる。わなわなと肩を震わせながらも、落ち着くように息を吐いた。
「……では、ランジュの代わりは総団長である貴方に任せます」
「は? 貴女の倍忙しいので嫌ですよ」
「ルーファスっ!」
つい怒鳴り声を上げるユーフェルティアだったが、男は気にもせず拾い上げた紙を机に置いた。
前分けされた前髪、肩に掛かるかどうかの毛先は浅葱色。
一八十はある長身に、すっと通った鼻梁と琥珀の切れ長の瞳。神経質そうに結ばれた口元と吊り上がった眉を除けば女王に劣らないほどの美丈夫だ。
身形はシャツに黒のネクタイをし、白のロングコート。そして黒のズボンに靴と平凡。
しかし、左耳で光る十字架のピアスのように両肩で留められた白地のマントには国旗と同じ竜と十字架。その腰に剣があるように、彼ルーファス・リッテンバルクは騎士だ。
それもトルリットに拠点を置き、東大陸全土を守護する『南十字騎士団(スタヴロス・トゥ・ノトゥ)』の総騎士団長。
歳は三十六になるが、二十五の若さで就任し、十の頃からユーフェルティアの護衛も担う実力者。気心も知れた相手……だが。
「そもそもどこかのバカな陛下が建国祭の全容を報せてないから帰還早々私がバカな陛下の元に出向く羽目になってるんですよ。一ヶ月もないというのにバカな陛下のせいで。よってバカな陛下の仕事です。ヴァーカ」
「~~~~っ!」
難点なことに口が非常に悪い。
結婚どころか浮いた話のひとつもないのは、このせいだと思われる残念タイプだ。
淡々としたバカ連呼にユーフェルティアも怒りが頂点に達したのか、勢いよく両手で机を叩くと『ギャウッ!』とマオンが吠える。同時にルーファスへと跳び掛かると、舌打ちと共に腰から抜かれた鞘が鋭い牙を塞いだ。
反動で互いに後方へ下がると睨み合う。
「よほど消失したいらしいな、狛犬……」
『ギャウ~~ッ!』
犬猿の仲ともいえる一人と一匹の臨戦態勢に、ユーフェルティアはむくれたまま座り直す。紅玉の瞳に映るルーファスに内心溜め息を零しながらサイコロをカップに落とした。
(久し振りに会ってもバカ連呼……それ以外はないのかしら)
常に傍にいた彼はユーフェルティアが王を継承した九年前から主要以外の護衛から外れている。最初は戸惑ったユーフェルティアも王に引けを取らず多忙な総団長の仕事を知ってからは距離を置き、今日のような報告以外は会わなくなった。
変わらず皮肉めいたことしか言わないことに安堵する一方で、どこか憤りと寂しさを覚えてしまう。
すると数度のノック音が響き『邪魔するぞ~』と、呑気な男の声と共にドアが開かれた。
「おう、なんだルーファスおったのか! 相変わらず仲睦まじいな!!」
「……それは私と狛犬のことではないだろうな、ワンダー」
「はっはっはっ、無論それ以外何がある! よっ、色男!!」
豪快な笑い声に興が削がれたのか、ルーファスは鞘を納めると同じ服を着た大柄の男を見上げる。ニメートルはある長身にオールバックにされた濃茶の髪。幾分白髪と髭が目立つが、灰の瞳を向けるのはルーファスと並ぶ騎士のトップ四。最高齢五十になるワンダーアイ・グリッツォだ。
馴染みの顔に、寄ってきたマオンを撫でながらユーフェルティアが訊ねる。
「ワンダー、どうしたのですか?」
「お、そうであった。姫……いや、陛下。それと総団長」
古参であるせいか、敬称を訂正したワンダーアイは礼を取った。
「タージェラッド様がお呼びですが故、急ぎ寝室に赴きいただきたい」
「急ぎって……父に何かあったのですか?」
十数年前、母を亡くして直ぐ心臓病を患った前王(父)に、ユーフェルティアは顔を青褪める。そんな不安を払うように頭を上げたワンダーアイは満面の笑みを向けた。
「いやはや、めでたいことに姫のご結婚が決まったそうでしてなっはっはっは!」
「………………はい?」
敬称が戻ったことなど構わず大笑いするワンダーアイに、ユーフェルティアは小首を傾げる。それからたっぷりの瞬きをし、マオンと見合ったまま脳内リピート。紅玉の目を見開くとまたカップを倒した。
「ええええぇえぇぇーーーーーーっっ!!?」
悲鳴にも近い声に慌てて門番が入室してくるが、笑うワンダーアイと茫然としているユーフェルティアに事態が呑み込めず総団長に目を移す。
両手で耳を塞いでいたルーファスは、顰めた顔で落ちたサイコロを見下ろしていた──。
* * *
空調が整い、街が一望出来る城の一室。
カランカランと音が響くと、テーブルに置かれた陶器の椀の中に三つのサイコロが並ぶ。ベッドの上で腕を組む者は口元に弧を描いた。
「一、一、五……ふむ、五で勝負だな。ほれ、ユフィ」
「そんなことよりもお父様、結婚というのは……」
向かいに座るユーフェルティアは椀から目線を上げるが、その顔は青い。
反対に腰まであるウェーブのかかった白髪をうなじ辺りで結い、顎髭を擦る痩せ細った男。先代王であり父であるタージェラッド・イーリス・トルリットは、出目の良いチンチロリン(サイコロ)のようにご機嫌だった。
「いや、何。お前も王位を継いでもう長い。そろそろ世継ぎも考え、結婚を視野に入れるべきだと思ってな。勝手に決めておいた」
「か、勝手にって……」
悪びた様子もなく笑う父にユーフェルティアは唖然とするが、椀から取り出したサイコロを手の中で転がすタージェラッドは続けた。
「名前はアルファ・セレーネ。御年は三十六。東方のルベンルクに住まう上流貴族の者で、私と妻も大変世話になった家の次男だ」
聞いたことない名前にユーフェルティアは困惑するが、ルベンルクは知っている。溶岩台地にも関わらず赤いレフアの花が咲くと有名で、両親が新婚旅行で訪れた街だ。
すると肖像画を差し出され、無意識に受け取る。
描かれていたのは上げられた茶髪に、青の瞳。
彫りの深い顔立ちで、ワンダーアイのように体格が良い。将来紳士なおじ様になりそうなイメージだ。
暫く眺めていたユーフェルティアは背後に立つルーファスに目をやると肖像画と交互に見合う。ポツリと呟いた。
「どちからと言えば……私はルーがタイプで……っ!」
滑った口にルーファスの片眉が上がり、慌ててユーフェルティアは顔を背けた。
単純に同い年の彼と比べ好みを言っただけだが、本人を前にしたせいか一瞬で顔が赤くなる。興味深そうに顎鬚を擦るタージェラッドは肖像画で顔を隠す娘に訊ねた。
「なんだ、ユフィ。ルーファスが好きなのか? それとも別に好きな男がいるのか?」
「い、いえっ、ただ、そのっ!」
「しかし、ルーファスはリッテンバルク家を継いでおるしなー」
天井を見上げる父にユーフェルティアは気付く。
世襲制度を取るトルリットでは家名の血を絶やさぬよう男女問わず家督を継ぐことが出来る。自分のように。そしてルーファスは上流貴族リッテンバルク家の嫡男であり、兄弟はいない。そもそも数年前当主の座に就いているため婿入り出来ないのだ。
それ以前に彼が好きなのかも結婚のことも分からない。
ただ戸惑うしかないユーフェルティアに、背を起こしたタージェラッドは握りしめた手を差し出す。その手を見つめたまま震える両手を差し出した彼女の手の中に三つのサイコロが収まった。
「なら、来月の建国式典で結婚を発表する」
「っ! そ、そんな急に……」
「もし別に好きな男がいるなら連れてくればいい。お前が本当に愛していると言えるなら見てやろう――いいな、ユーフェルティア?」
見据える目は同じ紅玉。
だが、射抜くように鋭く、振り向いてもルーファスは瞼を閉じている。喉を鳴らしたユーフェルティアは震える手を握りしめ、椀の中にサイコロを落とした。カランカランと木霊する音は心臓を叩くように荒く響く。
そして、逃げることは出来ない判決(出目)を下した――。
* * *
当に真夜中となった時間。
昼間より涼しくなったとはいえ熱帯夜に変わりなく、執務室の絨毯に寝転がるマオンに寄り掛かるユーフェルティアもナイトドレスだけだ。
僅かに開いた窓からは心地良い風が吹き通るが、彼女の顔は冴えない。
手にはピンクのカップ。中には三つのサイコロ。
カップを揺らし、カラコロと転がしていると静かな声が割って入ってきた。
「無敗だった貴女が負けるとは、結婚とは恐ろしいものですね」
手を止めたユーフェルティアは自分の執務用椅子に座り、ペンを走らせているルーファスを不機嫌そうに見つめる。普段ならそこは私の席だと怒るところだが、建国祭の確認をしているのを知っていると指摘出来ず、溜め息をついた。
「結婚を賭博(パイディアー)で決めないでほしいわ……」
「子供の頃から無邪気な顔でチンチロリンをけしかけ、城内の者を丸裸にした人の台詞とは思えませんね」
「あ、あれは暇だったから……」
「そのせいで何度私はクビになるところだったか……」
ペンを止めたルーファスは、ふっとどこか遠くに笑みを向け、ユーフェルティアは両手で顔を覆った。
子供の頃から父にサイコロを振らされ、勝てば要求が通ることを知ったユーフェルティアは誰かを見つけては勝負した。最初は笑って相手してくれたメイドも騎士も、終われば土下座で許しを乞う始末。
それがチンチロリンという名の賭博だと知った時は二度と表を歩けないとルーファスに泣きつき、父との付き合い以外はしないと決意した。
今もまた泣きつきたい思いだが、さすがにこの歳になっては出来ない。むしろ彼はどう思っているのか、マオンの鬣に顔を埋めると訊ねた。
「ルーは……私が知らない殿方と結婚しても良いのですか?」
肖像画だけでしか知らない相手。
しかもルベンルクから王都までは距離があり、建国式当日に顔合わせをする予定だ。外堀を埋められているような気がして、ユーフェルティアは不満気にルーファスを見る。と、目が合った。
距離があっても、見据える琥珀の双眸が確かに自分を映しているのが分かる。頬に熱が集まるのを感じるが、目を反らしたのはルーファスだった。
「別に……私は騎士で貴女は王。たとえ結婚しても変わらず従うだけです」
それはまるで『自分には関係ない』と言われているようで、熱かった頬が冷める。
ニ十年も共にいて寂しさの欠片も滲ませない彼に、ユーフェルティアは怒りよりもやっぱりと納得した。
今までだって何をしても呆れられるか怒られるかのどちらかで、心配されたことなどない。それこそ必死になって自分を止めることはしないだろう。
そんな権利など彼にはないし、ユーフェルティアという一人の騎士でもない。自分は王で彼は騎士なのだから。
そんなこと分かっているはずなのに酷く胸が痛み、目尻に涙が溜まる。それに気付いたかのように頬擦りするマオンの首に腕を絡めたユーフェルティアは口を開いた。
「じゃあ……私を式から拐ってくれと命令したら……聞いてくれるの?」
するりと出た言葉。
その重大さに気付いたのは虚をつかれたように目を丸くしたルーファスを見た時だった。初めて見るその顔に涙も引っ込んだユーフェルティアはカップを落とした両手で口元を押さえた。
(わ、私はいったい何を……!)
混乱する頭と激しく鳴る動悸に意味もなく立ち上がるが足元が覚束ない。起き上がったマオンが心配そうに見上げるが、ユーフェルティアの目は右往左往する。
「ご、ごめんなさい……まだ混乱してて……その、他意は」
「……それが命令なら従いましょう」
いつもの声で遮ったルーファスに、ユーフェルティアの目が大きく見開かれる。ペンを置いた彼は立ち上がると琥珀の目を彼女に向けた。
「ただし……それもまた天運に勝ればの話ですが」
声は変わらないのに、一歩一歩ユーフェルティアに近付く彼の纏う空気は呆れとも怒りとも違う。初めて感じる何かにユーフェルティアの足が下がり、背が壁に当たる。
マオンも威嚇の喉を鳴らすが、立ち止まったルーファスは身を屈めると転がっていたサイコロを見下ろした。
「ニ、ニ、四……役があるのは流石と言うか血と言うか」
三個の内ニ個がゾロ目、残り一個の出目が勝負の目となるのがチンチロリンだ。その目より相手が低い、またゾロ目が出なかったら自身の勝ち。それ以外だと負けになる。
感心するようにサイコロを拾い、立ち上がったルーファスはマオンに目を向けた。
「狛犬、お前は陛下のベッドでも暖めてこい。凍え死んでもらいたくないならな」
この熱帯夜に何すっとぼけたことを言ってるのかと思うが、今のユーフェルティアに考える余裕はない。そればかりか少しの間を置いたマオンが奥にある寝室に向かって歩き出したのだ。
「マ、マオンちゃん!?」
子ライオンだった九年前から一度だってルーファスに懐いたことも命令も聞かなかったマオン。ちゃっかり尻尾でルーファスの脚を叩きはしたが、器用に両扉のノブを回し開けると、寝室へと姿を消した。
利口にも扉を閉める音が響き、伸ばしたユーフェルティアの手が行き場をなくす。と、ルーファスに手首を掴まれた。
「っ!」
反射的に引っこ抜こうとしたが、力には敵わず、恐る恐る見上げる。
直ぐ真上にはルーファスの顔があり、身体もあと数センチでくっつくほど近い。こんな至近距離で彼を感じるのは子供の頃以来。あの頃は然程変わらなかった身長も今では頭二つ分の差がある。
何より大人になった顔立ちと見下ろす琥珀の目に宿る何かに、身体は囚われかのように動かず、ユーフェルティアはか細い声で言った。
「は、離して……ください」
「貴女が勝てば離してあげますよ」
じゃあ負けたら、と、訊ね返す前にルーファスは反対の手に持っていたサイコロを落とす。分厚い絨毯の上で弾むことなく出た目は、ニ、ニ、ニ。
「ニゾロ……俺の勝ちだな」
「っ!」
砕けた口調と弧を描いた口元にユーフェルティアは息を呑む。
早鐘を打つ動悸は彼との勝負で負けたことがなかったせいか、空いたルーファスの手が自身の頬に触れたせいかは分からない。彼の親指が下唇をなぞる。
「ル、ルー……」
「負けたお前の望みは聞かない。代わりにお前が俺のを聞け」
「聞けって……っ!」
たじろぐ彼女の頬にあった手が顎を持ち上げると柔らかいものが唇に重なる。それが彼の唇だと気付くのには数秒要し、その間にも口付けが深くなった。
「んっ、あ……ルーんっ」
唇が離れ息をするが、また直ぐ口付けられる。
閉じていても舌先で唇をなぞられると解かれるように開いてしまい、知らない味が混ざり合う。
必死に身じろいでも手首を掴んでいた手が腰、反対の手が頭に回り、逃げることが出来ない。なのに下ろした白金の髪を優しく撫でる手と、包むように柔らかい口付けにユーフェルティアは気持ち良さを覚えた。
「そんなにキスが気に入ったのか?」
「あっ……」
気付けば唇が離れ、鼻と鼻をくっつけたルーファスがくすりと笑っていた。あまりの羞恥に顔を真っ赤にさせたユーフェルティアは顔を逸らす。
すると、開いた首筋にルーファスの顔が埋まり、白いうなじに吸いつかれた。
「きゃっ!」
「ああ、簡単に痕がつくな……無垢な身体だ」
「な、何を……あっ」
声を震わせるユーフェルティアとは違い、唇を離したルーファスはどこか満足気に笑う。その意味が分からないまままた首筋に吸いつかれ、ちりっと走った痛みの上を舌先で舐められた。
「ひゃっ! ル、ルー……やめ」
「負けたのはどこのバカだった?」
「わ、私ですけど……貴方こんなはしたないこと……したかったのでっきゃ!」
吐息を漏らしながら訊ねると、ドレス越しに片胸を掴まれた。
予想外のことに身体を強張らせるが、大きな手に揉みしだかれても同じ吐息が漏れる。ルーファスの唇が耳元に寄せられた。
「ヴァーカ。どれも子供だったお前にサイコロで負けてされたことだ」
「う、うそ……っ」
「バカなお前は忘れてるだろうな。キスも……耳にかぶりついたことも」
不機嫌そうに囁いていた声に笑声が含まれると、パクりと耳朶を汲まれた。突然の刺激にユーフェルティアの身体は大きく跳ねるが、片腕だけでも捕らえる力は強く、小刻みに動くことしか出来ない。
唇を離されたと思っても、孔耳に舌を這わされた。
「ひゃっ、ああっ……!」
「だから、嫁に行く前に仕返ししようと思ってな」
「そ、そんなぁ……」
自分は酷く悩んでいるというのに、今更二十年も前のことを言われても困る。そもそもこんなことを結婚を言い渡された身が許されるわけじゃない。
そう分かっているのに触れる手も舐める舌も口付けも優しく、ユーフェルティアは拒むことが出来ないでいた。
「あっ……あぁ」
「気持ち良くなってきたのか? 尖ってるぞ」
「きゃあっ!」
孔耳に気を取られている間に、ドレスの胸元に潜った手がビスチェから乳房を掬いだす。異性など触られたことない箇所は大袈裟なほど熱くなり、見たことないほど先端が尖っていた。
摘み弄られると、お腹から下腹部に向かって刺激が走る。
「ああ……ル、ルー……こんなことも私……したんですか……?」
「いや?」
「え……ひゃっ!」
否定され呆気にとられるが、胸元に顔を埋めたルーファスは赤く実り尖った先端をペロリと舐めた。それを数度繰り返しながら上げた琥珀の双眸には、涙ぐむユーフェルティアが映る。
「ニゾロはニ倍勝ち……だろ?」
「そん……ひゃっ!」
先端に口付けたルーファスはパクりと食(は)んだ。
ゾロ目の力を知らせるように、倍返しするように口内で先端を舌で転がしては噛む。刺激を与えられる度に下腹部でゾクゾクと知らない疼きが増し、自然とユーフェルティアは腰をくねらせた。
すると、腰にあったルーファスの手が後ろからドレスを捲る。そのまま中に潜らせるとショーツを撫でた。
「あっ、あ……ルー!」
「我が国の銀竜は厭らしいな……こんなにも濡らして」
「やっ……!」
ツンと指先で触れたショーツの底は驚くほど湿っていた。
何故と疑問に思うよりも、ぐりぐりとショーツごと押し込む指と反対の胸を舐める舌に翻弄される。身体の奥底から得たいの知れない何かが自分を支配していくのをユーフェルティアは感じた。
「あ、あぁ……ルー……だめ……何か……くる」
「これだけで達するとはどれだけ……まあ、初心(うぶ)な方が良いか」
「なん……で?」
溜め息交じりの声に、ユーフェルティアは息を乱しながら訊ねる。
その瞳は既にとろんと半分落ち、下唇からは唾液が零れているほど淫靡だ。胸から顔を離したルーファスはその唾液を舐め取ると口付けた。
「ん、ふ……」
啄んでは舌先で唇を舐められる。
くすぐったさもあるが、それ以上に優しく、それでいて気持ち良い。挨拶程度のキスしか知らないユーフェルティアにとっても『好き』な口付けで、自然とルーファスの首に手を回す。と、口付けが止まった。
「ルー……?」
すべての行為を止めた彼の顔を不思議そうに覗くが、琥珀の瞳を閉じ、口を結んだ表情は読めない。また声を掛けようとした時、手際よくショーツを剥ぎ取られた。
「きゃあ!」
「初心な方が男は悦ぶんですよ。自分色に染めて、啼かせて、辱めて……特に女王である貴女を穢すことが出来る夫というのは羨ましいものです」
自嘲気味に笑みを浮かべるルーファスの手が、蜜を零す秘部を擦る。
それこそ自分でも触ることはない秘芽を撫でては弾き、蜜が彼の手を濡らすのを感じた。必死に止めようとするが、ルーファスの目に苛立ちのようなものが見え怯んでしまう。
口調が敬語なのも違和感を持たせるが、神聖域に入ってくる異物にユーフェルティアは意識を持っていかれてしまった。
「あ、ああ……」
太い指が秘芽を押し、ナカに押し入っては出ていく。
ポタポタと落ちる蜜が絨毯を濡らしてもルーファスは手を前後に激しく動かし、卑猥な水音と喘ぎだけが室内に響き渡る。だが、大きく息を吐くユーフェルティアには聞こえていた。ルーファスから零れる吐息を。
疲れとは違う息、流れる汗、何かを考えているように見つめる目に意識が朦朧としながらも訊ねた。
「ルーファス……貴方いったい……どうした……の」
「っ……!」
「っあ、あああぁぁ――っ!!!」
息を呑むような音がすると同時に、まだ開いてもいない初心のナカを太い指が貫いた。乱暴に道を開けるかのような勢いにユーフェルティアは甲高い声を上げ、初めて感じる波に意識を攫われる。
プツリと糸が切れた人形のように膝から崩れ落ちた彼女を抱き留めたルーファスもまた、その場に座り込んだ。
その息は乱れ、ユーフェルティアの頬に落ちた汗と彼女の涙を拭うと、ドレスに潜らせていた手を抜く。指には透明な蜜が絡みつき、ぎゅっと握りしめた。
「ユフィ……」
苦痛にも聞こえる呟きに応えない彼女を、ただルーファスは抱きしめた――。
* * *
何故、あんなことをしたのか。
何故、あんなことをされたのか。
どれだけ考えても、その答えは見出せない。
雲ひとつない晴々とした朝。
だが、執務をこなすユーフェルティアには覇気が感じられない。
それもそのはず。昨夜ルーファスの狼藉にも似た行為を思い出すだけでもペンが止まり、机に俯してしまうのだ。そして考えるのもまた彼のこと。
三つの頃から共にいた彼はユーフェルティアにとっては護衛というよりは遊び相手で、抱きついたりもしたし、抱っこしてもらったこともある。けれど、時が経つにつれ大人になった身体は自分でも驚くほどあの頃とは違う反応を見せた。
一夜明けた今でも唇には柔らかい感触と彼の味、下腹部で疼く痛みが残っている。
夢でありたいと、結婚から逃げるための悪い夢だと思いたい。
何よりナイトドレスばかりかショーツまで替えられていたことに頭を抱えた。侍女に『着替えたんですか』と問われたということは彼女達が替えたわけではない……つまり。
(いやあああぁぁっ! 下着の場所を知っているはずないわ!! 知ってたら変態総団長って呼んでやるんだから!!!)
言い様もない怒りと羞恥に、ユーフェルティアはサイコロを振りまくる。
ついでにマオンも扉の前で臨戦態勢を取るように尻尾をパタパタ動かし、今か今かと獲物を待ち構えていた。
しかし、彼の来訪がないまま正午を過ぎた頃。
扉を開いたのは同じマントと騎士服でも、スカート。一七十手前の身長に、紫紺の髪を左右一房お腹辺りまで伸ばし、後ろを肩上で切り揃えた女性。
「ご結婚おめでとうございます、姫様っ!」
「まだしてませんよ、ジェリー」
元気よく入ってきた『南十字騎士団』トップ四の一人で紅一点。ネジェリエッタ・ツベッチェの第一声にユーフェルティアは苦笑した。
コツコツと足を進めたネジェリエッタは報告書と一緒に雑誌らしきものを差し出す。ウェディングドレスのカタログだ。
「するのは決定なのですから、今の内に決めて損はありませんわ! 姫様はやはりプリンセスラインかパッスル……ミニでもいいですわね!!」
「ジェ、ジェリー。お、お心は嬉しいのですが、私個人で決めれるものでは……」
キラキラと少女のように目を輝かせるネジェリエッタの迫力に押されながらも、ユーフェルティアは諭す。そこで一国の王の式だと思い返したようにネジェリエッタの頬が膨らんだ。
それでも気持ちは嬉しいのと、多種多様なドレスに惹かれるようにユーフェルティアはカタログを捲る。
「たくさんあるのですね……ジェリー、どこからか借りてきたのですか?」
「いいえ、わたくしのですわ」
「え?」
ハッキリと告げた彼女にユーフェルティアは瞬きすると気付く。
ルーファスとワンダーアイ同様、三十五になるネジェリエッタも独身。まさか結婚するのだろうかと。手を組んだネジェリエッタは頬を赤く染めたまま舞うように言った。
「恋とはいつ訪れるか分からぬもの。運命の方と出逢えた時、即日結婚する勢いで何もかもを準備して退路を断たねば幸せは掴めませんわ。そう、わたくしとベル様に祝福が与えられなかったのはわたくしにその行動力がなかったから! ああっ、なんという悲劇!! ベル様ああ~~っ!!!」
最後、崩れさるように膝をついた彼女にスポットライトが当たったように見えた。並々ならぬ力説はドン引き行動を打ち負かす勢いがあり、ユーフェルティアはコメントに困る。何しろ彼女の『ベル様』という想い人は、ユーフェルティアの親友と幸せな日々を送っているからだ。
しかしそれは彼女も認め叶ったこと。
それでも迂闊なことは言えないが、ポツリと、躊躇うように訊ねた。
「ねえ、ジェリー……恋をするとはどういう気持ちなのかしら?」
静かな問いに、ネジェリエッタは紫の瞳を瞬かせる。
王族という立場上、ユーフェルティアにとって恋とは未知の世界。今までも縁談という名の肖像画やパーティーで異性と会う機会はあった。けれど、ネジェリエッタのように恋焦がれるほど夢中になれる人はいなかった。
そう告白したユーフェルティアに、ソファに腰をかけたネジェリエッタは暫し考え込み、人差し指を立てる。
「ルーがいたからではありません?」
「え?」
突然出た名に、向かいに座ったユーフェルティアは持っていたコーヒーカップを落としそうになる。そんな彼女に構わず、ネジェリエッタもカップに口をつけた。
「あの男、無駄に顔はいいですもの。今でも縁談話がきていると聞きますし、昔から傍で見てきた姫様にとってはその辺の男なんて芋同然ですわよ。ま、実態は口開けば残念な性悪俺様男ですけど」
しれっと失礼なことを言った気もするが、間違いでもない気がしてユーフェルティアは訂正しなかった。そして今だ縁談話が来るほど人気があることに驚きながらふと疑問に思う。
「ルーは何故結婚しないのでしょう……」
人生の半分を騎士として捧げ、総団長にも就任し、実家の跡も継いだ。ならばもう所帯を持ってもいいはずなのに、これ以上彼は何を望むのか。
そこで昨夜のサイコロを思い出すが、違うと振り払うようにコーヒーに口をつけた。すると『姫様』と声が掛かり、顔を上げる。カップを置き、両手を膝に置いたネジェリエッタが真っ直ぐな目を向けていた。
「ご存知かと思いますが、わたくし達騎士には忠誠の言葉と証が与えられています。命を賭してでも護るべき一人の主のための誓いが」
言葉に詰まりそうになったが、カップをソーサーに置いたユーフェルティアは静かに頷いた。
それは好きな異性に自分と同じ瞳の宝石を渡す習わし。一般であれば結婚の証になるが騎士は違う。誓いを立てた者に生涯仕えるというもの。それこそネジェリエッタが言うように命を賭ける侍従で、ユーフェルティアにはいないが父には誓い(そ)の騎士がいる。
「だからこそ容易に結婚は出来ませんし、するのならそれに相応しい方を選びます。わたくしもワンダーもランジュも……特にルーは」
「え?」
顔を伏せたネジェリエッタにユーフェルティアは目を丸くする。
だが、何かを問う前にマオンの吠える声と一緒に男の怒鳴り声が響いた。
「こんのっ、離せ狛犬! 磔のまま外に干して消失させるぞ!! それともディナーに並びたいか!!?」
『ギャウウウッ!!!』
入室してきたのはルーファスだったが、首を長くして待っていたマオンに片脚を食いつかれ、必死に離そうとしている。呆気に取られるよりも昨夜の情痴を思い出したユーフェルティアは心中穏やかではいられない。
くすくす笑いながら立ち上がったネジェリエッタは髪を後ろへと流した。
「姫様、ルーは姫様が思っている以上に真面目でバカバカな男ですわ」
「は?」
「近くにいすぎたからこそ分からない気持ちもあります。そして恋とはいつはじまるか分かりません……いえ、実はもうはじまっているかもしれません。くれぐれも胸の高鳴りにはご注意くださいませ」
「ジェ、ジェリー……?」
意味深な羅列を並べたネジェリエッタはニッコリ微笑むと歩きだす。
するとルーファスの背中を蹴り、マオンを抱き上げると執務室を後にした。一五十キロはあるマオンをヌイグルミのように持って行った姿にルーファスは唖然とする。
そんな背中を立ち上がったユーフェルティアは見つめる。
とくんとくんと徐々に動悸が激しくなる。
ただの背中なのに、彼だと分かれば全身が熱くなり、いくつもの言葉を思い出す。
――別に……私は騎士で貴女は王
――負けたお前の望みは聞かない
――貴女を穢すことが出来る夫というのは羨ましいものです
――ヴァーカ
たった一日だけで今までと何かが違う。
考えれば考えるほどネジェリエッタが言ったように胸が高鳴る。
ぎゅっと唇を噛みしめ、胸元で両手を握りしめたユーフェルティアは震える口を開いた。
「ル、ルー……?」
か細く、力ない声。
それでも浅葱の髪を、十字架と竜を、白のマントを揺らしながら振り向いた彼は、窓から射し込む陽射しよりも鮮やかな琥珀の瞳でユーフェルティアだけを捉えた。
もはや逃げることは敵わない高鳴りが増す――――。