48話*「墜ちた」
身体を震わせながら黒煙が上がる空を凝視する。
そこに小さな非常ベルのような音が聞こえ、メイドさんが慌てて駆け寄ってきた。
「マージュリー様! 東で火災です!!」
「まさか……モモカさん!?」
顔を青褪めたジュリさんの呟きに慌てて駆け出す。
ジュリさんも後ろに続くが、いつの日かと同じようにわたしの方が速かった。でも今日は遅く感じる。
だってわからない。何が起こっているのかも、ルアさんが飛び立った理由も、森山さんがきた理由も。何より黒煙が上がる場所は違う……薔薇園じゃないと思いたい。
困惑が伝わっているのか、いつもより速くない足で中央塔に入ると、南塔から同じように駆けてきた人に気付く。
「ヘディさん!」
「モモカ様!?」
結った濃茶髪を揺らすヘディさんを呼び止めると、彼のシャツを握った。
「違いますよね!? 薔薇園じゃないですよね!!?」
「私も音を聞いて駆けつけたので……フローライト団長は?」
「わ、わからないです……煙が上がった東に向かって……」
「っ、ともかく確認に行きましょう!」
震える肩に乗ったヘディさんの両手になんとか頷くと、大急ぎで東塔へ向かう。
逃げる人達とすれ違う度にベルの音は大きくなり、廊下を包む黒煙に口元をハンカチで覆った。萎れた案内の蔓薔薇、割れたプリザーブドを横目に行き慣れた道を進むと、薔薇が描かれた扉が見えてくる。
「鍵がっ!」
四メートルある白の両扉は閉じているのに、太い南京錠は焼け焦げて壊れ、扉の隙間からは黒煙が漏れている。ハンカチを落とすと、慌てて扉に両手を付けた。
「っあ!」
「モモカ様、下がってください! 『地浮槍(ちうそう)』!!」
焼きつくような熱さに手が引っ込むと、ヘディさんが扉に向かって両手を翳す。声に合わせ現れた数十の土の塊が宙で先端の尖った槍状の物に変わり、扉に向かって放たれた。大きな音に黒煙とは違う白煙が舞うが、扉に変化はなく、ヘディさんは汗をかく。
「上級魔法でもビクともしないなんて……こうなったら体当たりで……」
「お退きなさい!」
大きな怒鳴り声に振り向くと、紫薔薇の紋章を腕に付けた女性騎士さんニ人を連れ、ジュリさんが駆けてきた。慌ててヘディさんと二人扉から離れると、立ち止まった彼女は両手で杖を握り、水晶を扉に向ける。
『キュウアアアアーーーーー!!!』
瞬間、扉の隙間から黒煙と共に眩しい蒼の光と動物の鳴き声のようなものが響いた。
なんで動物がと思うよりも、覚えのある光に震える。
「今のって……ルアさんの『解放』?」
「っ……ただごとではないようですわね──『覚醒(デスペルタル)』!!!」
冷や汗を見せたジュリさんの声が響くと、紫色の線が巨大な円と薔薇の模様を彼女の足元に描く。同時に透明だった水晶の色が紫に変わり薔薇を浮かべると、どこからかやってきた大量の水が彼女の頭上に集まってきた。
目を奪われるわたしを、ヘディさんが抱き上げる。
「ふんきゃ!?」
「ここでは我々も巻き添えを食らいますので下がります!」
抱き上げられたまま大慌てで女性騎士さん達も扉から距離を取る。
赤のガーネットの双眸を細めたジュリさんは両手から右手に持ち替えた杖を大きく振り下ろした。
「『水龍覇(すいりゅうは)』!!!」
頭上にあった水が二つの翼を持つ龍へと姿を変え、牙のある口を大きく開けたまま扉に突撃。その衝撃は地を唸らすほど大きく、水飛沫が舞うとビクともしなかった扉にヒビが入る。杖を両手に握り直したジュリさんの額から汗が流れるが、わたしは叫んだ。
「ジュリさん、お願いします! 開けてください!!」
「申し訳ありませんけど……開ける……と言うより……──掻き消します!!!」
笑みを浮かべた彼女に水晶の光がいっそう輝くと、勢いを増した水の龍が徐々に扉のヒビを広げ──破壊した。
爆発音に耳を塞ぐと、瓦礫からわたしを護るようにヘディさんが覆い被さる。床に倒れた痛みよりも熱風を感じ、閉じていた瞼を開いた。目に映るのは破壊された薔薇の扉と黒煙。風で黒煙が払われると薔薇のアーチ。ではない、赤い炎と何色かもわからない薔薇が黒煙を上げながら出迎えた。
「あ、あ……あ……」
身体が震える。瞳が揺れる。
目の前で広がる炎は何? 焼け焦げているのは何? なんで──薔薇園が燃えてるの?
無意識に立ち上がった足が燃える薔薇園へと入る。けれど、進む身体は大きな両手に捕まれた。
「モモカ様っ、いけません!」
「放してくださいっ! 火を消さなきゃ!! 薔薇が……薔薇園が……!!!」
「お退き……げほっげほっ!」
「マージュリー様!」
両膝を着き、息を荒げるジュリさんが杖を支えに立ち上がろうとするが、青褪めた顔で咳き込む。止める女性騎士さんのようにわたしの足も止まると、虹色の輝きを放つ巨大な鳥が猛スピードで上空を通過した。
『キュウアアアアーーーーっっ!!!』
大きな風を起こしながら先ほど聞いた声が響くと、半分外に出ていた靴にポツリと雫が落ちた。顔を上げると冷たい。けれど黒煙が混じった黒い雨が降り注ぐ。火の勢いが小さくなるのがわかると、焦げたアーチへと駆け出した。
「モモカさ──っ!?」
ヘディさんの声は届かず、息を荒げながら進む。
嫌な臭いも黒い雨も焦げ散った薔薇が無数に落ちていても、あの時と同じようにきっと庭園にいる人の名を叫んだ。
「ルアさ「くるなーーーーっっ!!!」
捜し人の大声に足が止まると、アーチを通り抜けた先。まだ炎が包む庭園の宙に佇む人に目を見張る。
その後ろ姿は誕生式典の日に見た竜と薔薇が描かれた青色のマントを揺らし、琥珀の髪は燃盛る炎と火の粉で金色に輝く。けれど黒い雨で汚れ、背後には錆色すら消えた『福音の塔』が共に育てた薔薇と一緒に燃えていた。
震える声で数メートル上空にいる人を呼ぶ。
「ルア……さ……ん……」
「…………ダメだ……モモカ……」
焼ける音がしても雨音がしてもルアさんの静かな声が耳に届く。
彼が握る剣には血のような赤黒いものが付き、雫となって地面に落ちる。そして、ゆっくりと振り向く彼の頬にも同じ色が付いていた。綺麗な青水晶の双眸も影で漆黒にも見えるが苦辛のような表情。
「きちゃ……これは……わ「“|四つの射撃(クワトロ・ティーロ)”」
刹那、炎を纏った四つの矢がルアさんの身体を射抜き、赤い血飛沫が散る。
両手で口元を押さえ目を瞠るわたしと、ルアさんの虚ろな眼差しが見つめる先には足元に炎の円を描き、宙に佇む女性。炎でできた弓を手に持つ彼女も、式典で見た正装に黄薔薇のイヤリングとマント。そして金色の髪を揺らしていた。
「ナナさん……なん……で……」
振り絞った声で彼女を呼ぶが、先ほど会った時以上の険悪な顔つきで地面に落ちたルアさんを睨んでいる。再度訊ねようとすると、燃える『福音の塔』が吊り上げていた『幸福の鐘』と共に崩れ落ち、大きな音を鳴らした。それは綺麗も何もない、ただ叩き付けるかのような音。
両手を握りしめると急いでルアさんの元に駆け寄る。
「『地檻中(じかんちゅう)』」
「きゃあああーーーー!!!」
直後、地面に円が描かれ、直径一メートル、縦ニメートルほどの土でできた釣鐘型の檻に捕らわれた。それはルアさんも同じで、口から血を吐く彼の鋭い青水晶の瞳が、消化されたアーチから現れた人に向けられる。
「まったく……あれこれと問題を起こすのが得意だな」
「ノー……マ……」
「ノーマさん!」
鉄格子を両手で握ると、白のローブを揺らしながら蜂蜜色の髪を掻くノーマさんを呼ぶ。けれど、溜め息をついた彼は細めた深緑の双眸をわたしに向けた。
「モモカ・ロギスタン。重要建造物等失火罪で身柄を拘束する」
「え…………」
「待てっ、ノーマ!!!」
目を見開くわたしと同じように檻に捕らわれたルアさんが脇腹を押さえながら上体を起こす。その姿は正装ではなく、いつもの白のシャツとコートに黒のズボン。身体には矢が刺さり、シャツもコートも血で汚れている。そんな彼にも、ノーマさんの深緑が刺さった。
「……及びに、アルコイリス騎士団第五青薔薇部隊団長キルヴィスア・フローライト。幇助(ほうじょ)と『解放』による重要建造物損壊罪で共に連行する」
「ま、待ってください! わたし達は何もっ……!?」
戸惑いながらも告げられる内容を必死に否定するが、深緑の双眸に捉われ言葉が切れる。白の手袋をした手がローブの中から出てくると、横に広げられた。
「何もしていないと言うが、この現状を見ろ! この庭園は誰の者だ!? 誰が管理している!!?」
怒鳴り声に回りを見渡す。
火は宙を浮くナナさんと騎士団によって消化され、ノーマさんの後ろには数本の蔓と梁だけを残したアーチ。その下には数名の黄薔薇部隊に捕らわれているヘディさん。さらに後ろには瓦礫となった扉があり、紫薔薇部隊に支えられたジュリさんが鳥のようなものを水で作っていた。
わたしの後ろには崩れ落ちた塔。焼け焦げた鐘。ここは……薔薇庭園。
養親が大切に育ててきた薔薇が咲く場所。二人の代わりにわたしとお義兄ちゃんとルアさんとみんなで育ててきた薔薇園。けれど、一緒にお茶を飲んでいたパーゴラも、咲き誇っていた薔薇も、何ひとつ残らず燃えてしまったここは……どこ?
目に映る現実に口元を両手で押さえると、目尻からは雨でも水でもない、冷たくて痛い雫が零れる。
「あ、っあ……ああ……」
「………これはお前の監督責任でもある。同じ庭師として言わせてもらえば──最低だ」
「っああああ゛あ゛あ゛ーーーーっっ!!!」
自分の声とも思えない悲鳴が消え去ってしまった薔薇園に響く。
黒煙が上がる空は雲もなく綺麗な星と満月を照らすが、わたしは何も見えない闇へと墜ちた──。
~~~~*~~~~*~~~~*~~~~
薔薇園の火災が治まった同時刻。
東の海を渡った先。中央レメンバルン大陸西方にある船着場に大型帆船が到着していた。
シアン色の船体に三つの巨大なマストを持った、フルオライト国専用船(シップ)。
五十メートルはある白のメインマストには翼の生えた虹色の竜と薔薇が描かれているが、今は停泊のため畳まれている。だが、それよりも遥かに高い、七百メートル以上はある壁が目の前にあった。
ここは、アーポアク国。
『世界の始祖』と呼ばれる国は円を描く様に聳(そび)え立つ壁に護られ、外側から“国”を見ることは決して叶わない要塞都市。
満月とはいえ、その迫力と壁に埋め込まれた巨大な青色の二重門に船員。もとい、橙薔薇団員達は息を呑みながら松明(たいまつ)が光る地面に足を着けた団長と宰相補佐を見守っていた。
「どういう……ことだ……?」
震えるような声を発したのは白のローブを纏い、藤色の髪と灰青の瞳を眼鏡の奥で揺らすグレッジエル。彼の後ろには騎士正装を纏い、白の大判ショールを羽織った金茶髪のヤキラス。彼の赤の瞳も揺れていた。
二人の目先には紺色の騎士服を着た者が数名いるが、一人だけ服装が違う男が溜め息をつく。
「だから……知らないって……」
二人よりも小柄で十センチほど身長の低い男は前髪が目に掛かるかどうか。後ろ髪も肩に付くかどうかのストレートの青髪。着崩れた空色の着物に、紺青色の帯には手の平サイズの黒ウサギが紐で繋がり、裸足に下駄。肩には青の中羽織を掛けている。
鎖骨が見える胸元では黒い宝石のペンダントが光るが、常闇のような藍色の双眸は鋭い。
視線にグレッジエルは一瞬怯むが、手に持つ漆黒の封筒を見つめると、西方の守護をしているという男に訊ねた。
「これは……アーポアク国の書状じゃないのか?」
「確かにウチのですけど……ヒュー様……宰相様は何も出してないし聞いてないって……それ、どこで拾ったんですか?」
「いったいどうなってるんだい……」
話が噛み合っていない様子にヤキラスもグレッジエルも冷や汗をかきながら互いを見る。男は帯から黒ウサギを取ると、手で弄りながら不機嫌な声を発した。
「用もないのに勝手きて……さっさと帰ってください……今日ボクの日だから……早く愛したいんです」
「スルーすべきか悩むが……当然用はある。我々はこの国にいるという異世界人に会いにきた。それとイヴァレリズという男──っ!!?」
言い終えるよりも前に鋭い切っ先がグレッジエルの首元を狙うが、手を翳したヤキラスの地結界によって免れる。後退した二人のように宙返りした男も下駄と鎖の音を響かせながら着地した。
その手には六十センチほどの刀を握っている。柄頭から切っ先まで真っ黒な刀を。
「ストラウス団長!」
「うるさい……あの人に……なんの用……」
地を這う声と柄頭の先に繋がった三十センチほどの鎖と白ウサギが揺れる音に、制止を掛けた騎士達は慌てて下がる。同時に黒い殺気がグレッジエルとヤキラスを覆い、二人は身構えた。
目先には二重門に描かれた竜と共にある“満月”を背景に藍色の双眸を細め、切っ先を向ける男。
「あの人の前に現れるモノは──殺「こらっ」
冷たい声は遮られた。ペシンと男の後ろ頭を何かで叩く音と一緒に。
その光景にグレッジエル達も緊張が解けると男の後ろから呆れた声が聞こえた。
「スティ、あれほど物騒な台詞を言うなとわわわ!」
それは女の声。だが、刀をどこかに消した男が女を抱きしめたため、その姿はわからない。男は先ほどの冷たい声とは反対に慌てた様子で声を上げる。
「なんできたんですか!? あいつら悪者ですよ!!!」
「こらこら! どう見て聞いても貴様の方が悪者だっただろ!?」
「そんな……ボク……護ろうと……」
「ああっ! 悪かった悪かった!! 謝るから泣くな!!!」
慌てて男の首に細い左手が回ると頭を優しく撫でる。その手首には赤いハチマキと紫の宝石が付いたブレスレット。だが、天と地ほど違う甘い空気にヤキラスはグレッジエルを見た。
「灰くんと桃の木の空気だね」
「吊るし上げるぞ!!!」
「あー客人。イズなら昨日帰ってきてまたどこかに旅立ってしまったんだが、用件はなんだ?」
姿の見えない女は二人に鋭い藍色の双眸を向ける男の頬を突きながら訊ねる。瞼を閉じたグレッジエルは額に手を当てたまま大きな溜め息をついた。
「ですから、我々は異世界人に「うむ、だから私に用があるのだろ?」
遮った声にグレッジエルは瞼を開くと手を退ける。
同じように男を退かし、姿を現した女にグレッジエルもヤキラスも大きく目を見開いた。それは数日会っていない少女と同じ色。
「アーポアクにいる“異世界の輝石”は私だけだからな」
口元に笑みを浮かべる女をグレッジエルは下から上へと見つめる。
その髪に見覚えのある赤と白のプリザーブドの薔薇が付いたバレッタを見つけ、口を開いた。
『朴念仁ーーーーっっ!!!』
口よりも先に自身を呼ぶ声に振り向く。
国船を横切り、宙を飛ぶのは赤の嘴と足、頭は黒で薄い灰色の羽を広げた体長三十センチほどのカモメに似たキョクアジサシ。突然現れた鳥に目を丸くするグレッジエルに、息を荒げるキョクアジサシは紫薔薇マージュリーの怒号を落とした。
『即刻帰国なさい、バカ義兄! 薔薇園が燃えて、モモカさんが拘束されてしまいましたわ!!』
「なんだって!?」
声を上げたのはヤキラスだった。
だが、滅多にない彼の大声など届かず、グレッジエルの手からは黒い封筒が落ちる。風に封筒は飛ばされ、赤紫のストールも揺れると、灰青の双眸を揺らす男は静かに呟いた。
「…………モモ……?」
月夜の下で呼ぶ声に返答はなく、海に落ちた封筒が波紋を揺らしながら沈む────。