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82話*「凡ミス」

***~~~***~~~***~~~***~~~

 


 遡ること、二十五年前。
 この年、フルオライト国王の結婚が決まった。

 

 妃として選ばれたのは、コランデマ家の令嬢ニチェリエット。
 十八歳ながらも黄金色に輝く髪と翠の瞳は群を抜いて美しく、気立ての良さから一族だけでなく社交界でも評判であった。日夜、途切れることのない祝辞と祝儀がそれを物語っている。が。

 

「あああ、どうしましょどうしましょ!」
「ニ、ニチェリエット様、落ち着いてくださいませ!」

 

 なだめるメイドの声も聞こえていないのか、当人は両手を握りしめたまま自室を小回りしていた。何周目になるかわからなくなった頃、ひとつの溜め息が落ちる。

 

「ニチェリエット様。落ち着きがないと、お披露目の前に破棄されかねませんよ」
「そそそそれはいけません! ノーマ、ど、どう!?」

 

 慌てふためくニチェリエットが振り向くと、ぱんっと、両手を叩く音が響いた。突然のことに肩を揺らした彼女は立ち止まり、扉近くに控えていた少年はゆっくりと合わせた手を離す。

 

「ですから落ち着きましょう。はい、深呼吸」
「は、はい……」

 

 促されるまま深呼吸する彼女に、従者ノーリマッツは微笑む。それから何台もあるクローゼットへと足を進めた。
 
「陛下にお会いするならドレスはこのタイプで、宝飾は……」

 

 何着もあるドレスや宝石を手際良く選別していく少年に、ニチェリエットもメイドも呆気に取られていると、見事なコーディネートが数点できあがる。色はすべて白だ。

 

「ニチェリエット様の金色の髪に映えるのは白しかありません。それに……陛下もお好きな色ですから」

 

 語尾を弱めた彼の視線が落ちる。
 すると、見比べていたニチェリエットが振り向いた。

 

「ノーマはどれが良いですか?」
「え……ああ、どれもお似合いに」
「そうではなくて」

 

 上の空だったノーリマッツは慌てて答えるが、ニチェリエットは頭を横に振った。

 

「わたくしと陛下を考えてくださったのなら、あとは貴方の気持ち……貴方が本当に好きな組み合わせを着てこそ、わたくしは自信を持って謁見できます」
「私で……?」
「ええ、一緒に城へ参りましょう」

 

 柔らかな笑みに、ノーリマッツは目を見開く。
 普通なら陛下を第一に考えるものだ。それに城へ上がり、妃として迎えられるのなら、男である彼はもう仕えることはできない。主人と従者から、妃殿下と一般人に変わる。

 

 なのに彼女は言った。一緒に、と。
 それがどれほどの力があるか彼女は気付いていないだろう。握りしめていた両手を、噛み締めていた唇を解いたノーリマッツは一息吐くと、笑顔で自分の好きなドレスを選んだ。

 

 決して、本当に好きな名は口にせず。

 


* * *

 


 喜ばしい話に賑わっているのは城も同じ。
 だが、それ以上に国外への通達、挙式の準備と、類を見ないほど慌しかった。ただ一人を除いて。

 

「宰相、休憩に入るぞ」
「え? え? しかしまだ……!?」

 

 慌てふためく初老の宰相に向けられる青水晶の瞳。
 それは柔ら気に見えるが、瞳孔の奥には有無をいわせない力を宿していた。一時ほど息を呑んでいた宰相は肩の力を抜くと、ゆっくりと頭を下げる。

 

「かしこまりました、陛下。ではまた、二時間後に御伺い致します」
「ああ……ゆっくり休め。根を詰めた長時間の仕事は良い結果など出さないからな」

 

 次いで頭を下げる側近達に笑みを浮かべた男は席を立った。
 靡く髪は陽の光によっていっそう輝く金色だが、薄っすらと茶も見える。白を基調とした服や肩掛けには金糸で蔓の刺繍が施され、胸元には円を描いた七色の薔薇。中央には虹色の竜。

 

 虹霓竜こと国王──ツヴァイハルド・フローライト・フルオライト。

 

 ニ十七という若さながらも、卓越した知性と指導力で国に繁栄を齎(もたら)し、国民からも絶大な支持を得ている。だからこそ誰もが結婚を喜ぶが、彼に笑顔はなかった。

 騒がしい声も足音も消えた今は、ただ階段を上る自身の靴音だけが響いている。
 いつしか行き止まるが、慣れた手つきで天井石を持ち上げれば、薄暗かった螺旋階段に光が射し込んだ。注がれる太陽から逃げるように大きな影へと身を隠したツヴァイハルドは息を吐く。

 

「はー……落ち着くな」

 

 呟きは分厚い壁に反響し、闇へと消える。
 十数メートルにもなる巨大な黄金の鐘が吊るされた本城最上階は牢獄のように密閉された空間。床に座り込んだツヴァイハルドは自身を覆い隠す鐘を見上げた。遮る舌もない、音色も響かない、ただ闇だけが広がっている。

 

「まるで……私のようだな」

 

 ニ度目の呟きは反響しないほど小さく、ゆっくりと目を閉じた──直後。

 

『あぁぁぁぁーーーー』

 

 声が聞こえた。悲鳴というよりは間延びに近い声が。
 空耳かと目を開いたツヴァイハルドは怪訝そうに辺りを見回しながら腰を上げる。瞬間、頭上からハッキリと聞こえた。

 

「あああぁぁぁどいてーくださーい」
「は? あ、ちょ、待っ……!?」

 

 上蓋も見えない闇の奥から、悲鳴とは程遠い淡々とした声を反響させながら墜ちてくる物体。それが人間で女性だと気付いた時には勢いよく激突していた。ちょうど、ツヴァイハルドの腹に。

 

「げぶほっ!!!」
「100点……満点!」

 

 さすがのツヴァイハルドも倒れ込み、背中どころか頭を打つ音が響いた。対して小柄な女性は腕にすっぽりと収まり、右手には小さなガッツポーズ。
 お仏壇の鈴が鳴る中、上体を起こした女性は茶のボストンフレームの眼鏡を上げると辺りを見渡す。

 

「へ……あれ? 薔薇は?」

 

 先ほど同様、淡々とした声。
 まるで何事もなかったようにツヴァイハルドの腹の上で立ち上がると、ゆっくりと左右上下に首を動かす。そこでやっと自身が何を踏んでいるのか気付いたのか、そっと地面に降りると頭を押さえたまま唸っている彼に声をかけた。

 

「あのー……薔薇はどこですか?」
「最初に言うことがそれな……っ!?」

 

 一切ない謝罪に怒りを露にするが、覗き込む女性に目を見開いた。
 肩まではない短い髪は左右に跳ね、服も白衣もよれよれどころか若干土も付いている。表情もまた眠たげだが、自身を真っ直ぐ映す瞳は髪と同じ──漆黒。

 唖然とするツヴァイハルドに小首を傾げる女性は考える様子を見せると『あ』と、のんびりと頭を下げた。

 


「はじめまして……サクマ ケイといいます……ここに薔薇がありませんでした?」

 


 またしてもなかった謝罪どころか噛み合ってない問い。
 だが、自身だけを映す漆黒の瞳に、彼女に、ツヴァイハルドは目を奪われていた。


 

* * *

 


「わー……すごいすごい!」

 

 目の前の光景に、サクマ ケイと名乗った女性は駆けていく。
 暖かな日光、光る水滴、一輪一輪愛情が込められているかのように立派な花を咲かせている薔薇の数々に、彼女ははじめての笑顔を見せた。それに安堵の息をついたツヴァイハルドは、隣にいる大柄な男に身体を向ける。

 

「繁忙期に無理を言ってすまなかったな」
「何をおっしゃいます。国王の命に背く輩はおらぬでしょう」
「手土産を持って来る前に門前払いをしたのは其方ではなかったか? ヨーギラス」
「ははは、ごちそうさんです」

 

 大笑いしながら土産のシュークリームを頬張るのは『薔薇庭園』の庭師であり主人、ヨーギラス・ロギスタン。
 気心が通じる間柄なのか、ヨーギラスはかしこまることなく問うた。

 

「しかし、あのお嬢さんはどちらの方で? えらく薔薇に詳しいようですが」

 

 指に付いたクリームを舐め取るヨーギラスの視線の先には、薔薇の前で身を屈めた女性。容姿よりも、稀少な薔薇名や成分を呟いていることが気になるらしい。

 

「……とある国で薔薇の研究をしているそうだ。すまないが、しばらく好きにさせておいてくれないか」

 

 薔薇園を訪れる前に聞いたことを思い出すツヴァイハルドは慎重に言葉を選んだ。その神妙な面持ちに察したのか、シュークリームを食べ終えたヨーギラスは頷く。

 

「休園日なんで構いませんよ。スーチの良い話し相手にもなってくれそうだし」
「家にいるのではないのか? もうすぐ子が産まれるだろ」
「薔薇園にいないと落ち着かないらしくて『福音の塔』にいますよ。てか、陛下こそ結婚を前に他の女性といちゃマズいでしょ」
「? ただの客人だが?」

 

 小首を傾げるツヴァイハルドに、ヨーギラスは呆れた様子。
 頭を悩ませているようにも見えるが、ツヴァイハルドは彼の肩を叩くと薔薇園を後にする。間際、振り向いた目に嬉しそうに微笑む女性が映った。

 それが自身ではなく薔薇に向けられていることに、不思議と胸の奥がざわつく。

 

 

 


「いったいどういうことですか!?」
「何がだ……?」

 

 執務室で待ち構えていた宰相に、ツヴァイハルドは問い返す。
 宰相の顔は真っ青で、不思議と怒りも窺えた。考え込むように視線を上げたツヴァイハルドは時計を見て気付く。

 

「あ、二時間たっていたのか。待たせてすま「違います!!!」

 

 遮られた謝罪に、ツヴァイハルドはいっそうわからないといった顔をする。宰相の肩と唇の震えが増していると、見兼ねた宰相補佐が溜め息まじりに代弁した。

 

「実はですね、一時間ほど前に陛下が見たこともない若い女性と一緒だったと報告がありまして」
「なんだ、見てたのか」
「あなた自分が何者かわかってます? 自分空気ですとか思ってません? んな重い空気ないし、一人も護衛を就けてないとかバカですか?」
「プライベートには不要だし、自分の身ぐらい自分で護れる。あと、いつも思うが宰相より口が悪いな」

 

 淡々とした返答に補佐も言葉を失っていると、堪忍袋の緒が切れたかのように宰相が怒号を落とした。

 

「婚儀間近の国王がどこぞの者とも知れぬ女子(おなご)と共に居てはなりませぬ! しかも話しによればドス黒い真っ黒な髪と瞳など、まるで魔物の化身ではありませんか!! ああ恐ろしや!!!」

 悲鳴にも近い嘆きにツヴァイハルドの眉が吊り上がるが、あくまで冷静に横を通り過ぎると反論した。

 

「考えすぎだ。私達とて全員が同じ容姿ではないのだから、知らないところで漆黒がいてもおかしくないだろ」
「なりませぬなりませぬ! 漆黒は『世界の始祖』の証と云われますが、その女子からは魔力を感じないというではありませんか!! 始祖ではなく災いを齎す魔女です!!!」

 

 発狂する宰相に足を止めたツヴァイハルドは振り向く。
 その目には憤怒が込められ、さすがに危険を感じた補佐は慌てて応援を呼んだ。宰相はまだ何か言っているが、聞く耳を持たないというようにツヴァイハルドが手を振ると、入室してきた数名の部下と共に執務室から退場する。
 やっと訪れた静寂に零れた一息はとても重いもので、一人残っていた補佐は疲れた様子で訊ねた。

 

「それで、結局その女性は何者なんですか? まさかどこかの間者じゃないでしょうね?」
「それはない……が」

 

 曖昧な返事しか出来ないのはツヴァイハルド自身まだ判断し兼ねるところがあるからだろう。言葉が続かないことに補佐は大きな溜め息を吐いた。

 

「なぜ先に我々に報告せず『薔薇庭園』に連れて行ったのですか? しかもそのまま置いてくるなんて……いつもの貴方ならあり得ないほどの凡ミスですよ」

 

 独り言のような悪口のような指摘に両手を組んだツヴァイハルドは何も返さない。
 これ以上は無駄だと悟ったのか、また息を吐いた補佐は一礼すると静かに執務室を後にした。次第に熱が篭っていた部屋は肌寒さが伝わるほど冷え、時計の秒針だけが木霊する。

 

「漆黒……魔力を感じない……」

 

 ふとした呟きに、ツヴァイハルドは机の一番下の引き出しに手を掛ける。が、開かない。眉を顰めるも鍵が掛けられているのを思い出したのか、短い呪文を唱えれば『カタカタ』と動き出した引き出しが『カチッ』という音と共に独りでに押し出された。収められていたのは真っ黒な分厚い本。

 

 テーブルに置くと、少しだけ被ってる埃を掃う。
 表紙には自身の胸にある薔薇と竜が白字で描かれ、パラパラとページを捲った。秒針と重なっていた音は、とあるページで止まる。

 

「あった……第十三条“異世界の輝石”」

 

 確認するように指先でなぞりながら、古びた字を読み上げた。

 


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 国書第十三条“異世界の輝石”について此処に記す。

 

 稀に重力に逆らい導かれる者が現れる。
 それらの者は我らとは異なる世界の者。
 我らとは違い魔力も持たぬ非力な者。

 

 しかし、我らの創造を超える知識と力で国に幸福を与えた。
 同時に我が絶対なる君主(ひかり)と同じ黒耀の容姿によって災厄を齎す者。

 四の輝きと絶対なる君主の輝きを失えば世界は滅びへと誘(いざな)われる。
 誘い人が増えてはならない。だが幸福を逃してもならない。

 

 ならば審判にかけよう。

 幸福を齎す者に生を。
 災厄を齎す者に死を。

 どちらに転ぶか分からぬ輝石。
 その名は“異世界の輝石”。

 

 我らの未来に七輝の虹と虹霓の導きの薔薇があらんことを。


 

― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ―


 読み終えると指先も止まる。
 それからどれだけ考え込んでいたかはわからない。気付けば室内は薄暗く、人感式の淡いライトが灯った。立ち上がったツヴァイハルドは夕暮れを迎える外を眺めながら呟く。

 

「“異世界の輝石”……まさか彼女がそうだというのか?」

 

 見つめるのは東塔の先にある薔薇園。
 五十階以上も上にある執務室でも、広大な薔薇園は半分しか見えない。だが、今の彼の脳裏に浮かんでいるのが薔薇とも限らなかった。

 


* * *

 


「あなた……王様だったんですね」

 

 陽が暮れ、再び訪れた薔薇園の『福音の塔』。
 白衣を脱ぎ、のんびりとお茶を飲む女性、サクマ ケイの一言にツヴァイハルドは瞬きを繰り返す。そして名乗っていないことを思い出すと、慌てて頭を下げた。

 

「これは失礼した。私は九代目フルオライト国王ツヴァイハルド・フローライト・フルオライトと申す」
「長っ……」

 

 ぽそりと入ったツッコミに頭を上げたツヴァイハルドが目を丸くすると、立ち上がったサクマ ケイは難しそうな顔で彼の前に立った。十センチほど身長差がある二人だが、今はツヴァイハルドが上体を傾けているのもあって見下ろされている。
 部下がいればとんでもない光景だと騒ぎが起こるところだが、幸いロギスタン夫婦が生暖かい目で見守っているだけだった。固まったままのツヴァイハルドの頭上から呟きが零れる。

 

「ツヴァイハ……長い……でも王様じゃ“ぽく”ないし……あ、“シロさん”って呼んでいいですか?」
「……は?」
「ぶっははははは!!!」

 

 閃いたと両手を叩くサクマ ケイ、呆けた顔をしたツヴァイハルド、我慢できず爆笑するヨーギラス、微笑むステレッチェ。様々な表情の中、慌ててツヴァイハルドは反論した。

 

「いやいや、いったいどこから“しろ”が出てきた!? 一文字も入っていないぞ!!?」
「服……?」
「意味がわからない! だいたいミドルネームを除けば普通だろ!? 薔薇の名より短いはずだ!!!」
「へ……スーブニール・ドゥ・マダム・オーギュスト・シャルルの方が覚えやすいです」
「ウソだろっ!?」

 

 かつてこれほど声を荒げたことがあっただろうかとツヴァイハルド自身思うが、残念ながら庭師であるロギスタン夫妻も薔薇名の方が簡単だと彼女に味方した。
 本気で頭痛がしてくる頭を押さえるツヴァイハルドを、サクマ ケイは見上げる。

 

「それでシロさん……あたし、この庭園に住むことにしました」
「頼む……もう少しわかりやすい説明をくれ」

 

 次から次へと押し寄せる問題に、ツヴァイハルドの顔は真っ青だ。
 その殆どは彼女がマイペースすぎるという点だとロギスタン夫妻もわかっているのか、代わるように話を続ける。

 

「研究者だけあって、薔薇どころか世話やらなんやら俺ら以上に詳しいんですよ」
「ウチは従業員がいませんし、私もこのお腹ですので、ホタルさんが手伝ってくださると助かりますわ」
「ほたる……?」

 

 新しい命を宿した大きなお腹を撫でるステレッチェは微笑むが、ツヴァイハルドは怪訝そうにサクマ ケイを見つめる。すると、視線に気付いた彼女はそっと指を外に向け、誘われるように二人『福音の塔』を出た。

 

 雲もない月夜と星空が、ライトとは違う輝きで何色もの薔薇を魅せる。
 だが、ツヴァイハルドの目はそれらすべてを呑み込むほどの漆黒と背中にあった。吹き抜ける風のように少しだけ冷めた声が届く。

 

「ご夫妻が言ってました……日本なんて知らないし、黒髪や瞳もはじめて見るって」

 

 かろうじて聞き取れるかどうかという小さな声。
 その身体が震えているようにも見えたツヴァイハルドは手を伸ばすが、すり抜けるかのように彼女は歩き出した。

 

「あたし……イギリスで薔薇の探索してて……見つけたと思った矢先に……崖から墜ちたんです……そしたらシロさんがいました。最初は助かったんだと思いましたけど……知らないお城に薔薇園……しかも魔法で管理してるとか言われたら……ここが自分の世界じゃないってわかります」

 

 ざわりと、ツヴァイハルドの胸奥が騒ぐ。
 同時に大きな風が吹き荒れ、何百枚もの花弁が宙を舞うと彼女の髪にかかる。だが、寄せ付けないかのように、ひらりひらりと落ちていった。咲き誇る純白の薔薇達を背に振り向いた彼女の瞳は僅かに揺れ、その笑顔はどこか物悲しい。

 

「言葉は通じるし、食べ物も同じだけど……何か違うなって……だから偽名がいいかなって。こういう時……真名は危ないっていうから」
「……なぜ“ほたる”なんだ?」

 

 危険なのは真名よりも容姿。
 伝えなければいけないのに、口は別のことを問うていた。彼女はポケットから取り出した紙を差し出す。

 

「名刺に書いてある名前が……あ、暗くて見えないか」

 

 渡された“めいし”には名前が書いてあるらしい。
 夜でも魔法を使えば字は見えるが、実際のところなんて書いてあるのかツヴァイハルドでも読めないため眉を顰めた。すると、名刺を持つ手とは反対の手を取られ、気配がなかったことに驚くツヴァイハルドの手の平に彼女は何かを綴っていく。くすぐったく動く指先はゆっくりゆっくりで、いつしか“蛍”になった。

「これでケイ……そして、ホタルとも読みます。だからどっちもあたしなんです」

 

 そう説明されても、当然ツヴァイハルドは知らないしわからない。だが、同じように知らないことを知らない彼女は離した指先を口元に宛がった。

 

「でも……真名(ケイ)を知ってるのはシロさんだけ……秘密……守ってくださいね?」

 

 内緒話でもするかのような小さな声。
 そしてどこか意地悪く嬉しそうな笑みに、ツヴァイハルドの困惑も疑問も消えた。代わりに生まれるのは熱さ。感じたこともないほど熱くなる身体と動悸を抑えるように綴られた手を握りしめると瞼を閉じた。

 

「ああ……皆の前で其方の真名は言わぬ……そして、護ることを約束しよう。ただし……薔薇園に住むには条件がある」
「条件……?」

 

 彼の声もまた小さかったが、聞き取れた彼女は首を傾げる。すると、目を開いたツヴァイハルドは手を差し出した。

 


「私の……側室(妻)になってくれ」
「…………へ?」

 


 漆黒の瞳が今日一番に見開かれ、突風が薔薇を、花弁を散らす。
 これが後に大きな火種となり、未来まで巻き込むことになるなど知る由もなかった────。

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